愛しい人、 泣かないで、 笑ってみせて
軍部のえらーい人である、マクシミリアンさんは私の恋人ですが、私はしがないいち給仕。マクシミリアンさんは身分の違いなんかは全く気にせず、私を大切にしてくれますが、私からするとやはり、身分というか──そういうものの違いはあるもので。
「マクシミリアン・フォン・リンザー氏のお着きです」
「ミア、行くぞ」
初めて見る軍本部の門に、私はぽかんと開いた口が塞がらなかった。ぴりぴりと体中に感じる覇気と緊張。でも隣りにいたマクシミリアンさんは慣れたもので、ひょいと私の分の荷物も持ってすたすたと行ってしまった。私は慌ててその後を追い、必死で耳打ちする。
「あ、あのマクシミリアンさん!私は給仕代表として来たのですから、お荷物を、あの、せめて自分の分は持ちますので」
マクシミリアンさんは足を止めてじっと私を見下ろす。そしてふっと笑うと私に帽子を押しつけた。
「おまえは給仕である以前に俺の恋人だ。どうしても何か持ちたいというのならそれを大事に持っていろ」
不敵に笑って、マクシミリアンさんはまた足早に歩いていった。元々ハンサムで有名なマクシミリアンさんのそのかっこいいニヒルな笑みに、私はこれでもかというくらい胸がときめいて、彼の帽子を抱き締めてその後を急いで追った。
***
「おぉ!マクシミリアン・フォン・リンザー氏ではないかね?」
長い廊下を歩いているとき、少し太った初老の男性が現れて嬉しそうに手を打った。マクシミリアンさんは恭しく一礼する。私は軍部の階級システムというものが分からないので断言出来ないけれど、この尊大な態度からしてきっとお偉方なんだろうなあ、と漠然と思う。その男性はマクシミリアンさんの肩を叩くと、おお、そうだ!とわざとらしく言った。
「ちょうどわしの娘が来ておりましてな。歳を取ってからの一粒種で、親のわしが言うのもなんですが器量も良い。一度会ってみてはくれませんか、気に入られるかと」
その男性はマクシミリアンさんの返事も聞かずに廊下をばたばたと駆けて行った。私が不安げにマクシミリアンさんを見上げると、マクシミリアンさんは溜息をつく。
「“ちょうど"とは白々しいものだな……だからと言って恥をかかせる訳にもいくまい」
マクシミリアンさんは私の頭をぽんぽんと叩くと、少しだけ微笑んだ。マクシミリアンさんの微笑みは稀少なので、私は不安を感じつつも微笑みが私だけに向けられたことが無性に嬉しかった。そんな折、先程の男性が後ろに若い女性を引き連れて戻って来た。まさにお嬢様然としたその人は、私を見るとその端正な眉をあからさまに歪ませる。
「どうですか。じゃじゃ馬ではありますが器量は良いと踏んでおる」
そのお嬢さん私から視線をそらし、マクシミリアンさんを見るとはっと息をのんだ。お嬢さんはしばらくの間、ぽうっとマクシミリアンさんを見つめている。マクシミリアンさんはとても綺麗な顔立ちをしているし、強いし、背が高く脚もすらりと長い。見惚れない訳がないのだ。
「……私には勿体ないお嬢さんかと」
マクシミリアンさんは慇懃に言うと、早く先に行きたそうに目線を廊下の向こうにやった。でも、相手方もそう易々と引き下がらない。その男性はううんと唸りながらマクシミリアンさんを引き留める何かを探してきょろきょろとせわしなく視線をさまよわせ、ようやく私の存在に気付いたようで大きく目を開き、私に話の矛先を向けた。
「そっちは給仕ですか」
「え?いや──……」
マクシミリアンさんの言葉を遮り、男性は続ける。
「おい、おまえ。その給仕を給仕室に案内してやりなさい。わしはリンザー氏と話があるから」
「はい。お父さま」
その女性もマクシミリアンさんから離れがたかったのであろう、少し歯噛みしたあと、私に冷たい視線を向けた。そして、凜とした声を発する。
「あなた、こちらにいらして」
「あっ……はい」
私を一瞥したあと、踵を返したお嬢さんについて行こうとすると、お嬢さんはうんざりとした口調で言った。
「マクシミリアンさんにお荷物を持たせたままでどうするおつもりかしら」
「えっ、あっ、ご……ごめんなさい……」
私は慌ててマクシミリアンさんから我々二人分の荷物を受け取る。そのとき、マクシミリアンさんはお二人に聞こえないような小さな声で後で部屋に来るようにと耳打ちした。私が既に歩き出しているお嬢さんに小走りで着いていくと、お嬢さんは私にしか聞こえないくらいの小さな声で「愚図ね」と呟いた。私は心臓を鷲掴みにされたような感覚に、胃が落ち込んだ。この綺麗な栗色の髪を靡かせるお嬢さんは、どうやら出会って5分くらいしか経っていないのに、私のことが嫌いらしい。それはそうだ、きっとこのお嬢さんはマクシミリアンさんのオマケのような私が邪魔で仕方がないのだろう。
廊下を曲がって少し行くと、お嬢さんはこちらを振り向いた。私の手元の帽子をじっと見つめている。
「あ……あの。何か?」
「そのお帽子は?」
「あ、マクシミリアンさ……、様、のです」
「お寄越しなさい」
お嬢さんはマクシミリアンさんの帽子を私からひったくると、給仕室はこの廊下の突き当たりにあるから後はご自分でどうぞと吐き捨てると元来た道をさっさと行ってしまった。マクシミリアンさんの側にいるだけでこんなに女性からの風当たりが強いとは。普段は優しい人ばっかりの中で甘やかされていた私はそんなこともわかっていなかったため、私はしょんぼりしながらとぼとぼと長い廊下を歩いた。
***
「遅かったな」
一時間程してマクシミリアンさんの部屋に行くと、マクシミリアンさんは既に部屋に戻っていた。私はマクシミリアンさんの荷物を部屋の隅に置くと、マクシミリアンさんは怪訝な表情をする。
「ミアの荷物はどうした?」
「あ……給仕室に置いて来ました」
「何もわざわざ給仕室で過ごさなくても、たった数日だ。ここで過ごせばいいだろう」
マクシミリアンさんの言葉は嬉しいものだったが、先程のお嬢さんの顔が浮かんで手放しには喜べず、私は黙り込んでしまう。マクシミリアンさんは私の元へ歩いて来ると、後ろから私を抱き締めた。
「マ、マクシミリアンさん!?誰か来たら……」
「誰も来ないだろう」
マクシミリアンさんは私の耳元でわざと低い声で呟く。私の背筋がぞわりとあわ立った。
「帽子は?」
「あ……」
まだ返してもらっていないのだろうか。そのとき、コンコンと扉がノックされる。誰も来ないって言ったのにい!うそつき!私は慌てて身を捩ったが、マクシミリアンさんは私をがっちり捕まえていて逃げられない。
「まあ、見せつけてやればいいだろう」
マクシミリアンさんはいたずらっ子のようにそう笑って、どうぞ、と言った。私の頭の中が真っ白になる。更に運の悪いことに、扉の向こうに立っていたのはマクシミリアンさんの帽子を持ったお嬢さんだった。お嬢さんは目の前の光景に嫌悪を露にし、失礼と吐き捨てて部屋に入る。
「マクシミリアンさん、お戯れが過ぎるのでは御座いません?」
「どういうことです?」
私の位置からマクシミリアンさんの顔が見えないけれど、たぶん、マクシミリアンさんはにやりと笑ったんだと思う。語尾がどこか面白そうだった。私は恥ずかしいやら、どうしたらいいかわからないやらで半べそのままマクシミリアンさんの腕から逃れようと静かにもがいていたけれど、マクシミリアンさんの腕はがっちりと私のウエストのあたりをつかんでいて全くびくともしない。
「給仕女とその様な……」
「ほう。では娼婦となら良いのですか?」
「そう言うことを申し上げているのではありませんわ」
お嬢さんは憤慨したように眉間に皺を寄せる。マクシミリアンさんはきっと楽しんでいる。私がもう一度身を捩って「話してくださあい」と嘆くと、マクシミリアンさんはようやくく離してくれた。
「給仕だの娼婦だのと……卑しいではありませんか」
「私はそうは思いませんがね」
マクシミリアンさんは嘲笑混じりの笑みを浮かべる。マクシミリアンさんの腕から解放された私は部屋の隅にぴったりと身を寄せ、そんなマクシミリアンさんとお嬢さんをはらはらとしながら見ていた。
「給仕がいなければ普段彼らに甘えている私どもは掃除も洗濯も炊事も全てしなければならなくなりますよ。私もそうですが、あなたも家事炊事は苦手でいらっしゃるでしょうから」
マクシミリアンさんは目を細めた。マクシミリアンさんのそんな皮肉にプライドを傷付けられたのか、顔を真っ赤にしている。しかし、お嬢さんはマクシミリアンさんを責めるつもりはないらしく、何故か部屋の隅で小さくなっている私に厳しい視線を向けた。まるで諸悪の根源が私であるかのように私を睨め付ける。
「あなたも人並みの常識と羞恥があるならばお断りするべきじゃなくて?」
「わ、私……!?」
「先程から魯鈍な受け答えばかりして、教養の無さが伺えますわね」
突然、お嬢さんの口撃の的となった私は憤慨するより先にぽかんとしてしまったのだが、私より先にマクシミリアンさんのほうがたちまち怖い顔になって、逆にお嬢さんを睨み付ける。
「口が過ぎます」
「……っ、」
おそらく自業自得のような気もするけれど、お嬢さんはさっきからマクシミリアンさんの神経を逆撫ですることしか言っていないことに気付く様子もなく、やっぱり全身全霊を賭けて私を悪者にしたいようである。お嬢さんはますます顔を紅潮させて私に噛み付いた。
「夜伽の相手になればマクシミリアンさんの心を奪えるとでも思っているの?この、あばずれ───…」
お嬢様らしからぬ下卑た言葉を吐き掛けられた私は、さすがにショックを受けた。いたたまれないこの空気が堪えられなくなり、マクシミリアンさんどころか全世界に申し訳ない気持ちになり、たまらず部屋から飛び出した。
「ミア!」
マクシミリアンさんが私の名前を呼んだけれど、私は脇目も振らず長い廊下をただ走った。
「マクシミリアンさん、」
「言っていいことと悪いことの区別もつかない子どものわがままに付き合ってられる程俺は暇じゃない。俺がまだ冷静である内に消えることだ」
***
「うっ……うう」
「こんなところにいたのか」
「どわあ!?」
無我夢中で走った末に行き着いた廊下の端でしゃがみ込んで泣いていた私を、驚く程の短時間でマクシミリアンさんは見つけてくれた。あまりにもすぐに見つかったので、私は涙なんて引っ込んでしまい、驚いてしりもちをついてしまった。そんな私を苦笑しながら抱き起してくれたマクシミリアンさんは相変わらずハンサムで、その顔がまぶしい。確かに、こんなハンサムが私の恋人だなんて、ちょっと信じられない。私の夢かも。
そんなことを考えている私の頬の涙のあとを拭いながら、マクシミリアンさんは不快げに眉根を寄せた。
「教養が無いなどと……聞いて呆れる。どうやら自分が厚顔無恥だとは気付いていないらしい」
私は涙と鼻水で酷い顔だったろうに、マクシミリアンさんはそれはそれは優しい表情で私を見ていた。
「俺は周りがなんと言おうと、ミアを愛している」
「わっ、わたし、もっ、マっ、マクシミリアン、さん、」
「分かっている」
しゃくり上げて満足に物も言えない私を、マクシミリアンさんはぎゅっと抱き締めてくれた。マクシミリアンさんの体温と、上等のワインの香りのような、独特の香りが私を包み込む。私はマクシミリアンさんの広い背に腕を回してまた泣いた。しばらくして落ち着いた私とマクシミリアンさんが部屋に戻ると、目を真っ赤にしたお嬢さんと怒り心頭と言った男性が部屋の中で待っていた。
「おや、お揃いで」
マクシミリアンさんはさも驚いたと言った風に眉を上げた。
「どういうことだ!この子を選ばずそんな卑しいメイド女を選ぶとは!」
まるで赤蕪のようになった男性は私を指差して怒鳴り散らす。マクシミリアンさんは私を庇うように後ろにやりながら、飄々と言った。
「お嬢さんには勿体ない私ですので」
その言葉を聞き、酷く侮辱されたとばかりにお嬢さんはわっと泣き出す。もう赤を通り越して青くなった男性はその大きな体躯を震わせた。
「無礼な小僧だ!」
「ほう。私の上司にでも報告しますか」
「当たり前だ!こんな侮辱、黙っていられるか!」
「残念ですが、中尉であるあなたより私の上司はあれでも幾分あなたより地位は上でしてね。あれは尊大な割にまあ話は分かる方だ。それに、あの大将マルティン・フォン・シグムンドの姪であるこの者が侮辱されたとなれば、困るのはどちらでしょうか」
「なっ、大将マルティン・フォン・シグムンドだと!?」
マルティン・フォン・シグムンドの名前が出た途端、その男性の顔が今度は紫になった。お嬢さんも泣きやんでその大きな目を更に見開いて私を凝視している。一応言っておくと、当然ながら私は大将マルティン・フォン・シグムンドの血縁者ではない。それどころか、お会いしたこともない。お顔も正直ボンヤリとしか知らない。マクシミリアンさんはどこか楽しそうに口の方端を上げて慌てふためく二人を見ていた。
「……戯言を!」
「戯言かどうかは大将本人に聞けばお分かりでしょう」
男性は悔しそうに唸りながら歯を食いしばった。まるでマクシミリアンさんはこの男性が大将に会えないことを最初から分かっているような口振りである。男性は「覚えておけ!」とヒステリックに叫ぶと足音も荒く部屋を出て行った。
「ふん。三下程あの台詞を吐きたがる」
「あの……マクシミリアンさん」
「何だ」
「中尉って……偉いのですか?」
「ただの下っ端だ」
マクシミリアンさんは楽しげに、でも憎々しげに吐き捨てた。
「で、でも……マルティン・フォン・シグムンド様の姪だって……聞かれたらすぐに嘘だと分かるんじゃ?」
「下っ端が大将に会える筈ない。まあ百万に一つ会えたとしても、マルティン・フォン・シグムンドは楽しそうに肯定するだろうな」
「そうなんですか?」
「そんな人間だ」
マクシミリアンさんは優しく微笑んだ。そしてマクシミリアンさんは私の頬をまた優しく包み、そしてそのまま優しく私に口付けした。