エピローグ
運河の水面に反射する朝陽が、古い街並みを優しく照らす。運河沿いの道は、花々が咲き誇り、市場の活気が空気を震わせていた。
飛び交う商人たちの呼び込む声と走り回って遊ぶ子どもたちの声。
すっかり慣れたその場所を歩くオリヴィアの姿は、帽子にワンピース、片手にはバスケットとありふれた出で立ちであるが、鍔広な帽子にかかるベールは薄く上品で、手にした籐のバスケットは薄黄色で艶があり一目で質の良さが伺えた。
オリヴィアの身分を知るものは誰もいないが、通い始めた頃の会話のズレや優雅な立ち居振る舞い、品のある風貌などと相まり、世間知らずなお嬢様が何かしらの事情でこの街にやって来たと噂され、露天商たちからはひな鳥を愛でるように見守られている。
そんな柔らかく温かな視線に気が付かないオリヴィアは、いつものように穏やかな笑顔で店主たちと交渉し、満足げに食材をバスケットに詰めていく。
気がつけば、オリヴィアがこの街に来て三年の月日が過ぎていた。
ワンシーズンスキップするつもりが、あの日以来、社交界には顔を出していない。
オリヴィアの為に建てられた庭付き一軒家があまりに住心地が良くて、庭を手入れして過ごしているうちに気がつけば薬草師として人々の生活を助けるようになっていた。
薬草師とは、薬草を上手に使いこなし、人々の健康を守っている人のことだ。
樹木やその果実、草花まではオリヴィアの守備範囲だが、『賢き女性』のようにお産や鉱物療法、心理療法、占星術と様々な分野にまで精通はしていないので、あくまで植物療法を得意とする薬草師というのがこの町でのオリヴィアの役回りである。
餅は餅屋。悪魔と誹りを受けても後進のため、医学の発展のために貢献し、今も努力し続けている医療に携わる人たちの邪魔をしてはいけないし、するつもりもないが、医学は金がかかる。そして医師の数も多くはない。
その目と手が行き届かないところを補うのが『賢き人々』であり、オリヴィアのような薬草師なのだろう。
オリヴィアにしてみれば、庭で育てている薬用植物を手入れついでに間引いたものを天日干しにしたり、煎じ薬にしたりと勿体ないの延長で色々しているに過ぎない。
貴族女性の教養部分を少しだけ踏み込み、修道院で学ぶ自然学とすり合わせ日常に役立てている。言ってしまえば趣味の領域で、何かを修めようだとか、誰かの役に立とうとか、そんな大志はないのだ。
それを薬草師と仰々しく名乗るのはどうだろうか。というのが彼女の見解だが、オリヴィアの庭の素晴らしさを知るアーサーは、寧ろ名乗り、町の人を助けて欲しいと願った。
オリヴィアからジンジャーシロップを分けてもらったことがあるアーサーは、その効能の高さを身を以て体験している。
熱心に口説かれ、ならばとアーサーの店に幾つか薬草香茶を置かせてもらうところから始めた。
夜、少しだけ眠りやすくなるお茶や体を温めやすくなるお茶、少しだけ不安が遠くなるお茶や弱った胃腸をいたわるお茶。男女問わず、ちょっとした気休め程度かもしれないが日々の生活に役立つような効能の組み合わせで茶葉を作り袋に詰めた。
そこから徐々に広がり、今では直接悩みを聞き、その症状に合ったお茶を調合したり、傷薬など軟膏は出来ないのかと相談を受け、軽い火傷や切り傷なら治りが早くなる練薬を作るようになった。
他者に生薬を分け与えることについて、それを生業とは捉えてなかったオリヴィアだが、アーサーから「たとえ少額でも代金を払った方が堂々と受け取れるし、次も頼みやすいです」と言われ、対価は頂いている。
たしかに、感冒予防や疲労回復など医者に行くほどではないが、何かしら手を打ちたい時、安価で手に入るならそれに越したことはないだろうし、オリヴィアと直接知り合いでなくとも頼みやすいというものだ。
対価を貰ったほうが薬を求める側も気が楽になる。
それまでなかった考え方を、一つ教えられた。
働かないのが一種のステイタスだった時代から、随分と社会は変わり、貴族も多くの副業を持つようになった。裕福な平民たちから学ぶことも多いと貴族たちに知らしめた一番鶏は誰だったのか。
市井に暮らすということをオリヴィアに教えてくれたのはアーサーだ。
親切で真面目、オリヴィアの育った環境からの違いで理解できない、または認識が違うことに出会っても、呆れたり放置したりせず、彼女が理解しやすいよう手を変え品を変え懇切丁寧にその違いについて説明してくれる優しい男性。
アーサーとは、一年ほど前に正式に婚約を結んだ。
心根が優しく生真面目なパン職人であるアーサーに、娘を嫁がせることをあっさり了承したヴァレンタイン家に、財産のない自分でいいのかとアーサーの方が及び腰だ。
『人と食とは切り離せないもの。たとえ目に見えた富を積み上げることができなくとも、飢えない生活ができればそれでいいではありませんか』
孫娘の生活を見に来た老婦人にそう言われたアーサーは、素直にオリヴィアにプロポーズしたという。
あれから一年。
そろそろ結婚をと、ヴァレンタイン家はアーサーにオリヴィアの邸宅へ引っ越しを促しているのだが、粗野な自分が通いのメイドがいるような家に入るのはと二の足を踏んでいるような状況だ。
因みに、アーサーの認識は少し間違っていて、今の家に越してからオリヴィアの家には住み込みのメイドが一人と通いのメイドが一人、同じく通いの料理人が一人。週に一度、会計士が訪ねてきて帳簿を確認し帰っていくといった貴族階級からは外れたものの、上流階級としては十分な生活を送っている。
貴族階級のお嬢さん、裕福な家門の娘さん。そんな認識でいた町の人々が、まさかオリヴィアが自分たちが暮らす土地の領主の娘であったと知るのは、アーサーがオリヴィアと共に暮らすようになってからなのでもう少し先の話となる。
◇
少し、話は遡り――――。
アーサーとの婚約がまとまってすぐ、オリヴィアは仲の良かった友人数人に近況報告として、
『コーレットで出会ったパン職人と婚約した』
そう手紙を書き、送った。
そうして直ぐ、友人たちから返信が届く。
概ね内容は同じで、驚きと思い切りの良さに対する呆れ、過去のアレコレを持ち出しての思い出話と最後は幸せを願っていると結ばれる。
そんな中、王都で暮らす友人からの手紙に、最近ではすっかり忘れかかっていた名前を見つけた。
オリヴィアの元婚約者であるエドワード・ゴーセンスと、彼と運命の出会いを果たしたカリナ・トンプソンの婚約が暗礁に乗り上げたという噂話についてだ。
真偽については定かではないが、彼女の見立てとしては、鉄道事業の不振が原因でそんな噂が出たのではないかと綴られていた。
さすが宮廷で働く侍女だわ。と、オリヴィアは感心する。どんな細やかな噂話であったとしても耳に入れて逃さないのだろう。
元婚約者たちの事は預かり知らぬが、投資話としての鉄道事業についてはオリヴィアも幾つか目を通していた。
事業計画書通りに事が進めば、大金を手に入れることができただろう話だが、現実はどうにも渋かった。
現在のファーレチカの鉄道事業は、貨物専用として鋼鉄のレールを敷き工業地帯を行き来させている。鉄道会社の取り分は貨物の種類と量、距離によって定められた線路使用料のみとされ、しかも、この金額も低く抑えられていた。
理由は簡単で、経営業務の決定権を持つ顔ぶれの多くが沿線の工場主だったためだ。彼らは鉄道会社が上げる利益より、自分たちの工場が利用する輸送手段が安価であることを望んだ。
それにより、純粋な出資のみの投資家が些か割を食う形となった。
元婚約者たちの結婚が決まるのは、旅客輸送が始まり安定してからになるのだが、その後も一筋縄とはいかず。鉄道事業は馬車鉄道から蒸気機関の実用化と発足と開業、解散、若しくは買収を五十年近く繰り返して発展していくこととなり、エドワードたちの生活も少しばかり荒波に揉まれることとなる。
しかし、オリヴィアにとっては、彼らは自分の人生から外れた人たちなので「少しばかり大変そうよ」と、貴族階級に残る友人から教えられても、頑張ってとしか思わなかったし、何なら、手紙から顔を上げた瞬間にはそう思ったことすら忘れていた。
◇
瓦斯灯の柔らかな光の下、ソファで毛布にくるまりながら小説を読む。
最近仲良くなった仕立て屋のお針子からオススメされた平民の冒険小説だ。彼女が力説しただけあって、泥臭くも希望に満ちた物語に引き込まれる。
しかし、途中から話の流れが変わった。
恋は盲目とばかりに主人公に献身的に尽くしていたヒロインが追手から逃れるため、弟をあっさり殺し亡骸を切り刻んで海に捨てたり、結果として、主人公から王位を簒奪する形となった叔父が主人公に王位を還さないと判断するやいなや、王女たちをけしかけ王を釜で茹でたり。
とんでもないことをしてくれたと逃げた土地で、その土地の王から自分の娘を嫁にどうだと話を持ちかけられて、やめておけばいいのに了承してしまったが故にヒロインにより花嫁衣装を纏った王女が物理として燃やされたり。娘を助けようとした父王も焼死してしまうという悲劇の展開。
市井の人々とは、このような物語を好むのか。
過激すぎるヒロインに、オリヴィアは目が点である。
最後、神の血を引くヒロインはとっとと太陽神である祖父に贈られた飛竜が牽く戦車に乗って神の国に帰り、ヒロインによって人生を揉みくちゃにされた主人公は放浪の果て、冒険を支えてくれた船の残骸の下敷きとなって死亡する。
前半の冒険パートの血湧き肉躍る感動を返してほしい。後半は嫉妬深い女の恐ろしさと英雄とまでうたわれた男の没落の物語である。
「深いわ……」
多分、違う。
オリヴィアは、気分を変えようと窓の外へ目をやり、星空をぼんやり眺めて暫し。ぽっかりと空いた時間に考えるのはアーサーのことで。そうして、アーサーの店で聞いた街の噂を思い出してクスリと笑った。
どうやらこの屋敷は、魔法にかかっているらしい。そして屋敷に住むオリヴィアは、魔女ではなく人間界に遊びに来た妖精なのだとか。人にして欲しかったような、そうでもないような……確かに一度の人生で平民が貴族に出会える確率は、妖精と似たりよったりなのかもしれないが、微妙なラインだ。
子どもたちの発想力は逞しい。
病に伏した時、オリヴィアから渡された薬湯を飲んで回復したり、回復するのを間近で見たりして、そういった発想になったのだろうか。
どちらにしろ、時折子どもたちから「フローラ・ヴェール!」と、呼びかけられる理由が分かった。
「そろそろ寝る時間ね」
本を閉じたオリヴィアは机に向かい、日記帳に今日の出来事とアーサーの店で教えられた噂を数行にして書き留める。
ふと、過去を思い頁を捲ると、どの頁にもアーサーが登場していた。
確かにこの町に来てすぐの自分は、人とは価値観が違う妖精だったのだろう。
何者でもない。裕福だろうとは見て取れたかもしれないけれど、出自は怪しい。
そんな自分をアーサーは最初から受け入れてくれていた。
『オリヴィア、貴女は運のいい子だわ。エドワード・ゴーセンスのような考え無しより、手に職をつけ、更にその職で新しい何かが出来ないかと努力し続ける事が出来るのは才能よ』
ボキューズの女学院で学んだ祖母は、当時の貴族社会ではかなりの革新派と呼ばれたらしい。
『しかも貴女に惚れている。最高じゃない。少しばかり抜けている貴女と、コツコツ積み上げることが苦にならない彼とはきっとうまくいく。あの過保護どものことは任せなさい』
常ならキリリとした祖母の眉が、あの日は優しくアーチを描いていた。
『貴女はただ、貴女が愛して、貴女を愛してくれる人と幸せになればいいの』
彼女の言葉で、それまでなんともあやふやだった気持ちが、はっきり愛しさだと名付けれるほど固まったと言っていい。
本当の魔女は、祖母のような気がする。
彼女の言葉一つで、自分は幸せを見逃さずに済んだのだから。
瓦斯灯のつまみをそっと回して部屋を暗くする。
明日は、何をしようかしら。
そんなことを考えながらベッドに入り、ハーブピローのサシェを軽く揺すって形を整え枕元に戻す。家女中が整えたシーツの清潔な感触と匂いが心地よかった。
「今日もいい日だった」
瞼を閉じると、そこに思い浮かぶのは、自分を愛してくれる人の優しい笑顔と粉だらけの指先。
ああ、そうだわ。
空気が乾燥すると小麦の粉塵で喉が余計に傷みやすいと言っていた。
リコリスにペパーミント、マシュマロウルートをブレンドした薬草香茶をアーサーに届けましょう。
乾燥対策で、少しお店にも置いてもらったほうがいいのかもしれない。
明日の予定が決まったと満足気に大きく息を吸い込む。サシェから香るラベンダーとカモミール、その二つの中に薄っすらと隠れたバレリアンが肺を満たした。
明日もきっと、いい日だわ。
柔らかな香りに誘われオリヴィアは眠りへと落ちていった。
お付き合いいただき、ありがとうございました。




