3.
近所に行きつけのパン屋が出来、朝の散歩ついでに朝市に寄るのも慣れた頃。
最近のオリヴィアの朝の日課は、起きてすぐに瓦斯ストーブを灯すことだ。
寒さに凍えるほどではないが、空気を暖めてから着替えたいと夜着に分厚いガウンを纏った状態でウロウロと歩き回る。
昼前に通いのハウスメイドがやって来て掃除や洗濯、日用品の買い出し、夕飯の支度などをして帰っていく。
オリヴィアとしては、何ごとも挑戦と自分の手で行いたかったのだがアイロン掛けはコツがいるのと不慣れだと不注意から怪我をする可能性があるので諦めることにした。
洗濯もそうだ。布の質や織り方などで洗い方が変わるなんて……。少し考えてみれば分かりそうなことなのに、無知というのは怖ろしい。まったく思いつかなかった。尊い犠牲が払われる前に、回収したメイドは優秀である。
掃除や部屋の片付けは、幼い頃からナースたちに学ぶ。だが屋敷全体の掃除となると一人ではままならないし、何よりキッチンの床掃除で水を使いブラシで擦って洗い流すなんてオリヴィアが行ったら次の日は体の節々が痛くて動けないだろう。
人間、引き際が大切である。
オリヴィアは、新聞受けから持ってきた新聞を片手にキッチンに戻って来ると新聞は一旦テーブルに置き、温めておいたティーポットにルースリーフをティースプーン一杯分山盛りに入れ、ミルクパンから直接熱湯を注いだ。屋敷では出来ない雑な行いも一人しかいなければやりたい放題である。
今朝の茶葉は、ジンジャーにレモンマートル、リコリスをブレンドしたものを用意した。一日を温かく、爽やかな目覚めで始められるようにと選んだものだ。蓋をして三分ほど蒸らす間に、ストゥールに腰掛け持ってきた新聞に目を通し始める。
『シヨン公クリストファー・スローン死去』との見出しに息を呑んだ。
「大公妃が亡くなられたのは、三年ほど前だったかしら……」
財貨の女主人と呼ばれた大公妃は、オリヴィアが暮らすファーレチカ王国と縁があった。
彼女がシヨン公妃となる前、当時の恋人と一時期暮らした土地がファーレチカのラシュールなのだ。彼女たちが暮らした家は、紆余曲折を経て今ではホテルとして活用されている。
「ご高齢でしたものね」
仲睦まじい夫婦だったと伝え聞く。
この時期ということは、シヨン公はアヤラの豊かな実りを目に収めてから旅立たれたのだろうか。
自身とは縁もゆかりも無い相手だが、人の死というものはしんみりとした気分にさせるものだ。オリヴィアは目を閉じると指を組み、別々の日に天の宮城へと旅立った夫婦が無事に光華の花園で再会できることを祈る。
その日は、落ち着いた気持ちでのスタートとなった。
◇
ファーレチカに暮らす人々は、毎朝パンを買いに行く。なかには、日に何度もパン屋に訪れる人もいる。それほど、彼らの生活とパンは切っても切れない関係であった。
かくいうオリヴィアも、ほぼ毎朝、アーサーのパン屋を訪れるようになった。
アーサーも、彼女の笑顔を見ることで一日が始まる喜びを感じていたのだが、所作や言葉遣いからオリヴィアの出自が透けて見え高嶺の花と眺めるだけの生活だ。
貴族に生まれついた女性とは、基本強い生き物である。貴族でなくとも母とは少しでも娘が幸せな結婚ができるよう願ったり、尽力したりするものだろうけど、貴族というのは平民に比べ財産と身分について考え方が熾烈であった。
国内に良縁がないと知るや入植地に文官として赴いている者のところに船に乗り海を渡って嫁いでいくのだ。
少しでも財産がある者のところへ。
しがない町のパン屋のところになど、上流階級の娘が嫁に来てくれる筈がない。
あるとすれば、神の奇跡か気まぐれかといったところだろう。
だから、朝のひととき。運が良ければ、日に何度か。オリヴィアがパンを求め訪れた時に彼女との会話を楽しむ。それがアーサーに出来る最善であった。
「えっ、オリヴィアさんが?!」
オリヴィアから渡されたビリーコッヘルを手にアーサーは固まって動けなくなった。ありえないと思っていた奇跡がわが身に降り注いだのだ。
「ええ。最近、普通の感冒より流行感冒にかかる人が増えているでしょう?」
だから心配になって。と、アーサーのためにジンジャーシロップを作ってきたのだという。
「飲む時は、お湯で割って好みの濃さになるよう調節してくださいね」
にっこりと微笑む彼女は、まさに聖女だった。
「あ、有難うございます」
勿論、アーサーだって様々なスパイスは扱うし、それに準じた知識もあれば活用して商品として店に並べている。
だが、恋しさを感じ始めている女性から自分の身を気遣っての贈り物は格別であった。
そしてオリヴィアも、アーサーが自身でより自分好みのジンジャーシロップを作れることくらい十分に理解していての差し入れだ。ただ相手を気遣い、贈るという行為に、お大事にしてくださいという思いを込めたのだ。
「あっ……と、そうだ。今日からベラベッカも並べるようになったんです」
デレデレと蕩けてしまいそうな心を必死に留めて、アーサーは季節の風物詩ともいえる伝統菓子が店頭に並んだことを告げた。貴族は時季の食べ物に敏感だと聞く。本当かどうかは知らないが、もしそうならオリヴィアにはいち早く口にしてほしい。
「まぁ、でしたらお一つ頂いていくわ。ボン・ノムはあるのかしら」
「勿論です」
胸を張るアーサーに、愉快そうにオリヴィアは微笑った。流行りものが好きなのは何も貴族だけではないし、貴族も別に流行に生きているわけではない。アーサーの気遣いはから回っているのだが、それにアーサーもオリヴィアも気が付かない。ただ、時季のものを勧めた、勧められたで会話が成り立っている。それでも、会話を交わすだけでふたりは幸せな気持ちになり、たまたま居合わせた客たちは、その優しい空気に気持ちが少しだけ柔らかくなった気がするのであった。
ビリーコッヘルってなんぞや? となられた方もいらっしゃると思います。
見た目、はんごうです。キャンプでお米を炊くアレ。
アレより小型からもっと大きなものまであります。
何に入れようかなぁ? となって、昭和のドラマとか雑に鍋ダイレクトアタックお裾分けしてるシーンあったなと思い、鍋ダイレクトアタックにしてみました。
蓋付いてるから、外持ち歩いても衛生的にはセーフかな? と。
ベラベッカとはなんぞや? は、シュトレンに似たパン……ですかね。支配の歴史による食の交わりっていうちょっとデリケートなお話になります。
ボン・ノムは、めちゃカワなお菓子のようなパンのような……。
デニッシュ生地のヒトガタのパンでレーズンで目と胸のボタンがついてて、チョコの靴下を履いていたり帽子をかぶっていたりします。




