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私を愛してくれる人  作者: 櫻井


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3/7

2.

 ヴェルヌ領は地理的には三つの要素に分かれる。北東部と中部の鉱物資源の豊富な楯状地、北部のアンドス湾岸の森と沼地で覆われた湿地帯、そして南部のワレア湖に面する肥沃な湖岸の農工業地域。


 豊かな土地だ。

 オリヴィアが愛した故郷だ。


 いま彼女は、毎日好きな服を選び、好きな時間に起き、何も計画せず、ただ自分が必要とする時間を自由に過ごす生活を満喫していた。


 暖かな色調で統一された内装の部屋は、シンプルで心地よく、壁には好きな作家の本が並び、窓からは街の喧騒が聞こえる。歴史ある石造りの家の庭には、いつかの住民が植えたのだろうホーリーが赤く美しい実をつけていた。


 その日、いつもより少しばかり早起きしたオリヴィアは、新しい朝の空気を楽しむため散歩に出かけることにした。朝早い街路はまだ人影が少なく、街並みは絵画のように美しい。冷たい風が頬を撫でるたびに、心地よい寒さが身体を包んだ。


 伴も連れずに外歩きをするなんてと、お母様が知ったら卒倒してしまいそうね。


 小さないたずらが成功した少女のように、オリヴィアはひとりクスリと笑う。


 静かな朝の散歩を楽しむオリヴィアの足取りは軽い。誰にも邪魔されず、自分の心のまま歩けるというのはとても贅沢だ。


 このまま、市場まで行ってみようかしら。


 少し早いような気もしたが、彼らの朝はオリヴィアよりずっと早い。きっともう店は立ち並んでいるだろう。


 通りを進むうちに、彼女は一軒の小さなパン屋(ブーランジェリー)の前で足を止めた。窓には新鮮なパンが並べられ、香ばしい香りが通りに漂っている。


 何度か店の前を通ることはあったが、中には入ったことがない。ウィンドウ越しにこっそり中を覗き込むと、一人の青年が黙々とパンを焼いているのが見えた。


 パン職人(ブーランジェ)の朝は早いと聞いたことがある。

 まだ夜中のうちに起き出した彼らは、夜明け前には生地をこね、窯に入れて焼き始めるのだ。


 なんだか漂うパンの香りで、街が目覚めていくみたいね。


 焼きたてのパンの香りが、オリヴィアの心をくすぐった。


 きっとこの香りは、通り過ぎる人たちみんなを幸せな気分にしてくれてるに違いないわ。


 だから私が、このお店に寄るのも仕方のないことなのよ。


 甘く漂う香りの誘惑に負けたオリヴィアが扉を開けるとパンを焼く香ばしい香りが一気に押し寄せた。


 ああ、罪深きこの匂い……。


 店主がカウンターの向こうで粗熱を取り終えたらしきクロワッサンをワイヤーラックからバスケットへと次々に移し替えている。


 お一人で切り盛りしているのね。


 香り一つとってもパン職人達のこだわりは垣間見える。この店の職人は焼けた小麦と甘いカラメルの匂いが引き立つクロワッサンを焼くのだと確信した。


「おはようございます。いらっしゃいませ」


 カウンターに近づく彼女に気付いた店主が手を休め、笑顔でオリヴィアを迎えた。


 近くで見る彼は、思っていたよりずっと若かった。テキパキと働く姿から兄より大人に見えたのだが、こうして間近に対面してみると兄と同じか少し下かもしれないと思える。


「おはようございます。すごくいい香りで、思わず入ってしまいました」

「ありがとうございます。自分もこの香りに元気をもらっています」


 朗らかに答えた店主は、その後少しはにかむように「あの、初めてのお客様ですよね」と続けた。


 どうやらこの青年は、客の顔を覚えているらしい。

 もしかしたら、街の住民に愛されているパン屋なのかもしれない。と、今さらながらに思った。


 こんなにもいい香りなんだもの、当たり前よね。


 店内を見回すと、クロワッサンのほかにも、さまざまな種類のパンが魅力的に並んでいた。アパートメントからほど近いこの店を利用する機会は今後増えるだろう。そう思うとスルリと言葉が出てきた。


「ええ、最近この通りで新しい生活を始めたんです」


 それは一種の閉鎖された世界で生まれ育ってきたオリヴィアの初めての行動だった。


「どうりで。こんなきれいなお嬢さんなら絶対忘れないのにと思ったんです」

「まぁ……!」


 商売人の口がよく回ることはオリヴィアも分かっているが、彼の口はそれらとは違う気がした。溌剌とした笑顔がそう思わせたのかもしれないし、粉まみれの指先や手の甲や腕に残る火傷の痕に職人としての矜持を見たのかもしれない。

 どちらにしろ、彼女はこの若きパン職人に興味を持った。


「何かおすすめのパンはありますか?」

「そうですね。これは新作なんですが……」


 彼は彼女に、チョコレートとオレンジの皮を隠し味に加えたクロワッサンを勧めた。新しいレシピに挑戦したのだとかで、店頭に並ぶのは今朝が初めてなのだという。


「あとは、コチラですね」


 次に指し示したのは、アプリコットのコンフィチュールが織り込まれたクロワッサンだった。甘さを控えているところがポイントだと紹介される。


「今朝は、このふたつが特に上出来です」


 この時のオリヴィアは知らなかったのだが、この店Le matin(ル・マタン)を一人で切り盛りするアーサーは、伝統を守りながら工夫し、新しいレシピを季節ごとに考案して人々を楽しませると評判のパン職人だった。

 中でもクロワッサンの評価は高く、オリヴィアは本当に偶然から最良を引き当てるという運の強さをみせたのである。




 ◇




 当初の予定になかったクロワッサンとバケットが一本入った紙袋を抱え、オリヴィアは家へと戻ってきた。


 クロワッサンは、アーサーが勧めたものを。バゲットは、ライ麦が多めに入ったものを選んだ。ほんのりと温かいパンたちに幸せな気持ちになる。


 素敵な朝に、素敵な出会い。今日は運のいい日ね。


 オリヴィアは、二階のサンルームで朝食を摂ることにした。窓からは初冬の朝日が差し込み、彼女の目の前では香ばしい蒸気が立ち上る。


 瓦斯というものは、とても便利だわ。部屋も明るいし、コーヒーだって手軽に淹れられるもの。


 コーヒー沸かし器なる瓦斯器具を使えば、一度に三杯ほどのコーヒーが淹れれた。


 何ごとも多くの使用人たちによって支えられていた彼女の新しい生活は、このような便利な暮らしの改革によって実現している。そのことをかみしめ、天に感謝した。


 いつかは屋敷の方も瓦斯を取り入れるのでしょうけど、館が大きくなればなるほど難しいでしょうね。


 そんなことを考えながら、クロワッサンを口に運ぶ。カリッとした外側に隠れたほんのり甘いアプリコットのコンフィチュールが口の中で広がった。


「美味しい……」


 アーサーが上出来と言っただけのことはある。


 思わず唸りながら、オリヴィアはこの小さな幸せを噛みしめるのだった。







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