欠陥神官の終結 ーー 浄化が出来ない落ちこぼれ神官は、幼馴染の聖女に婚約者ができたので終わりを与える事にしました。ざまぁないですね。
真っ暗闇の中で、意識が浮上する。
音もなければ、この場所がどこかも分からない。自分の名前さえ朧げだ。身体は投げ出されたように揺蕩うような浮遊感にも似た不快感が全身を包んでいた。
より意識が鮮明になると撫でつけるような不快感は、臓腑を直接触られているような気持ち悪さへと変わる。
反射的に嘔吐しようと身体が跳ね。
それだけの動作で骨が軋み。肉が断裂し。皮膚がひび割れたかのような錯覚と激痛が押し寄せる。自分の状態は暗闇によって見えやしない。だが、だからこそ、恐ろしく。だからこそ、文字通りぐちゃぐちゃに撹拌されているかのような錯覚に囚われる。
いや、錯覚などではないかも知れない。
悲鳴とも嗚咽とも取れない音が、喉から漏れると喉が張り裂け。眼から流れ落ちる涙が、まるで熱せられた溶鉄のように熱い。
頭痛がする。
吐き気がする。
全身が張り裂けるように痛い。
肺へと流れ込んだ空気が、まるで針を突き刺さすような痛みを齎す。どうして。何でこんな事になっているのか分からない。全身が激痛によって痙攣し、その微細な動きによって皮膚が空気によって削られる。
痛い。
辛い。
苦しい。
このままでは、死ぬ。
いや、死ねるなら死んでしまいたい。
ここは地獄だ。生き地獄だ。
何で自分がこんな事になっているのか。ここが本当に地獄と呼ばれる場所ならば、自分はどんな罪を犯してしまったと言うのだろう?
意識が明滅する。
記憶が回帰する。
そこには、一人の少女の姿があった。
少女は、金の刺繍がされた。
白いローブを身に纏っていた。
教会のステンドグラスから漏れた光によって、少女は照らされていた。荘厳な雰囲気に包まれる教会に、少女以外の姿はない。少女へと近づく。少女は気が付かないのか一歩二歩と近づこうとも跪いた姿勢から動く様子はない。
そのまま、俺は。
少女の首元を引っ捕まえた。
少女の来ている服は、普通の聖職者が着るような一般的なローブなどではない。祭儀用の高価な物であり、教会でも上位の者しか着る事を許されていない物だ。前に触ったら酷く怒られたのを覚えている。
「おい、バカッ! さっさと脱げ、怒られるぞ!?」
少女はきょとんとした表情をしたまま、間抜けに目をパチパチと瞬かせる。が、ローブを脱ぐような事もしないし、自分が悪い事をしたとも思っていないようですらある。多分、状況を理解していないのだ。
サラサラとした細い銀の髪。
まんまるな可愛らしいサファイアの眼。
肌は白く、柔らかそうで薄らと赤みを帯びている。
どうやら、この容姿によって随分と甘やかされてきたようだ。可愛らしいが鈍臭い。神は皆に平等であり、神の前では全ての人間は対等なのである。聖職者関連の連中は誰であろうと説教を垂れてくる。
そして、たまに拳まで飛ばしてくるのだ。
「いいから、脱げっ!
今なら、まだ誰にも見つかってねぇから、怒られねぇからっ! バカッ、抵抗すんな! もし、伸びたりしたら怒られるだけじゃ、済まねぇからな!?」
ぐいぐいと少女からローブを剥ぐ。
何故か、少女は無駄に抵抗してくる。
羽交い締めにして、前へと回した手で胸元の留め具を外す。ジタバタと逃げようとする少女を、胴体へと回した腕で圧を掛けて制圧する。留め具を外して圧を緩めると少女は、這うようにして逃げてゆき。
そのローブの裾をめくり上げるように剥ぎ取った。
ローブと共に引っ張られ。
少女は地面へ、ダイブしたが大した事ではない。
少女を横目にローブを確認する。特にほつれもなければ、破けた所も見当たらない。問題はないだろう。後はこれを元にあった場所に戻して、盗んだ事がバレていなければ全て解決だ。
少女から持ってきた場所を聞かなければ。
「………何してんだ。お前は」
見渡すとローブを剥かれた少女は、女神像の足元へと座り込んでいた。キャミソールとパンツだけになり、三角座りをしている姿は妙な哀愁が漂っている。
というか、何で中に服を着ていないんだよ。
「お前、これ、どこから持ってきたんだよ」
声を掛けても、反応しない。
少女は俺へと向いた後、ローブへ視線を移して俯くと膝を抱えた。どうやら動く気はないらしい。肩を揺すっても、ほっぺをつついても、脇腹を刺しても動じない。
羽交い締めにして、連れて行こうにも三角座りをしたままの少女一人分の重さは腕がキツい。それを聖堂内で大人達に見つからず運ぶとなれば、まず不可能だ。
「おい、動けよっ! 動けったらバカッ!」
流石に少女相手に叩けないので、頬を引っ張る。
何を考えているか分からない少女の表情が、間抜けな表情になるのは少し面白い。指で鼻をつついて豚鼻にしてやる。馬鹿め。訳がわからないと言った風の少女の眉を吊り下げてやる。何とも情けない表情だ。
少女は抵抗せず、されるがままだ。
撤回しよう。少しではなく、これは結構と面白い。
「ははっ、お前って何も抵抗しないんだな」
こうなってくると、どれだけ我慢するのか試したくなってくる。少女のぷにぷにとした頬を指でぐりぐりと押す。嫌そうに目を瞑って少女は耐える。
最終的に少女は、頭を横に振って嫌がった。
なるほど、こいつの事が分かってきた気がする。
感情がないとか、何を考えているか分からないと言うよりも、感情を表現するのが苦手なだけらしい。証拠に少女は少し睨め付けるように顔を下に向けて、こちらを見ている。泣いてないので怖がるというよりも、嫌がっているようだ。
少女は思っていたよりも、気が強いのかも知れない。
「悪かったよ、悪かった。そう怖い顔すんなって、お前が声を掛けてくれないから寂しかったんだよ。ほら、笑ってる方が似合うって」
頭を軽く撫でて顔へと手を近づけると、少女は顔を背けた。これはこれで面白い。まるで機嫌の難しい小動物のようだ。少なくとも何を考えているか分からない訳じゃない。
「ほら、元あった場所に戻しにいくぞ!」
少女はローブを見た後、また膝に顔を埋める。
表情から感情が分かっても、意図が掴めた訳ではない。
少女の方をじっと眺める。少女は三角座りをしたまま、虚空を見続けている。そこに何かがある訳でもなければ、座っている少女に目を合わせても特に変化は見られ………少女が視線を外した。
もぞもぞと緩慢に身体をズラす。
………こいつ、まさか。
「服着てねぇから、恥ずかしがってんのか!?」
思わず声を上げると、少女は顔を背けた。
思い至らなかったと言うか。気にしてたのか。
少女と同じ年代の奴は、下着だろうが裸だろうが気にしないような者もいるのに。こいつは中々ませているらしい。だが、理由が分かったなら単純だ。
「分かったよ。ほら、俺のローブを着ろよ」
ローブを脱いで少女に掛けてやる。
少女に動きがないので、ローブを着せてやる。
ボタンが留め具が入りづらいと言えば、少女はスクリと立ち上がり、やっと意思疎通が取れた。口許に自然と笑みが浮かび、なんの気なしに視線を上げると少女も少し微笑んだ。
そして、ゆっくりと小さく口を開く。
「…………どう、したの?」
どうした?
どうしたって……ああ、そうだ。
少しの間だが、ぼぅとしてしまっていた。
最近になって俺は『奇跡』を憶えたのだ。まだ傷を治せるような物でもなく暖かみを感じる程度の物だけど、俺は奇跡を使えるようになったのだ。それを教えたくて少女に会いに来たのだ。
最初に遭遇してから、何回も聖堂へと足を運んでいると時折に少女と会うようになった。少女も俺に慣れたのか小さく消え入りそうだった声は、今では聞き取れるくらいになっている。
表情も分かりずらいが、最初に会った頃に比べれば豊かになった。最初に会った頃から時間は経ち、少女の背丈はもうローブに合うくらいに成長している。
「よし、手ぇ出してみろ」
「………うん」
手のひらと手のひらを合わせる。
静かに神へと黙祷をし『奇跡』を乞う。
手のひらに仄かな暖かみを感じ。成功を確信して、ゆっくりと瞼を上げると少女の顔があった。少女は驚いている様子はなく。合わせた手を見つめながら、少しだけ口元を緩めた。
「…………あったかい」
「だろっ! やっぱ、俺は天才だよなぁ!」
基本的に動きのない少女に、肩を組む。
いつも反応が薄いので、このくらいで丁度いい。
少女の表情に少しだけ脈が狂った。そんな違和感を紛らせるように男友達や兄妹かのような距離感で少女と話をする。悟られぬように知られぬように。
少し熱くなった顔を見られぬように。
「なぁ! 俺が教えてやろうか?」
「……ううん、いい。それより、話しが聞きたい」
話を聞きたい、か。
そんな事を言われても、特に面白い話もない。
孤児院の連中は馬鹿ばかりだし、あいも変わらずに教会の大人は口うるさい。出店のおっちゃんは元気で宿屋のおばさんは豪快だ。そこに変わった面白い話もなく。何の代わり映えもしない日常が広がっているだけだ。
最近で何かあったとすれば、宿屋のおばさんの娘の子にクッキーを貰ったくらいだ。あれは、おいしかったな。
「ちょっと前にさ、クッキー貰ったぜ。美味かったから手伝いでもして、今度はお前の分も貰ってきてやるよ。甘いの好きか?」
「……うん、好き」
後は、おっちゃんがくれた鳥串も美味かった。ただ鳥串は熱いうちに食った方が美味いし、ここへ持ってくるには苦労するだろう。クッキーと違って会う日まで持たないので、たまに姿を見せる少女に渡すには毎日のように買わなきゃならない。
それだと、駄賃が足りない。
思考を巡らせて、思案する。
「なぁ、一緒に冒険しないか?」
「……冒険?」
「ああ、街に下りて探索しまくる冒険だ」
少女が、こちらをジッと見る。
その表情には、どこか翳が差していた。
貴族の子女であれば庶民の街に下りるなど、確かに不安だろう。だが、それ以上にきっと少女と一緒に回る街は楽しいに違いない。少女の手をとって、暗い顔をした少女の瞳を見つめる。
「安心しろよ、俺がいる」
見つめ合った後、少女は小さく頷いた。
そうと決まれば、少女の手を引き聖堂を後にする。
大人に見つからないように教会を駆け、茂みを通り抜けて、壁にできた子供一人が通れる程度の穴をくぐり抜ける。その壁を抜けてしまえば、もう大人に見つかっても咎められたりはしない。鈍臭い少女が迷わぬようにその手を繋ぐ。
「さぁ、冒険にでようぜ!」
「………うんっ!」
向かうのは出店のおっちゃんの所だ。
ここまで来るのに、腹が減ってしまった。
切り整えられた石畳の坂道を二人で下りる。無駄に高い壁を沿うように歩き、市場にある出店に向かう。空には煙がいくつも見え、街は秋の豊穣を祝う催しをしているのが分かる。
街の空気も、どこかいい匂いがする。
鳥串を買うと、おっちゃんが少女の分にオマケを付けてくれた。小遣いが足りずに腹一杯には無理だと思っていたので嬉しい誤算だ。少女は串物を食うのが初めてなのか、悪戦苦闘して口元がべちゃべちゃだ。
「あーあ、ほら、噴水にいって口洗うぞ」
「……でも」
「お前、ハンカチ使ったら、洗う時にバレんだろ」
ポッケからハンカチを取り出そうとする少女の動きを止めて広場の噴水にまで連れてゆく。少し戸惑う様子を見せるが気にしない。少女はまだまだ悪い事の仕方がなってない。
広場は更に人通りが多く。まだ背が小さい俺たちの視界は、道を歩く大人達によって壁のように塞がれる。はぐれないように少女の腕を寄せて俺の腕に絡ませるように手を繋ぐ。
「離れるなよ」
「うん」
噴水へと着く頃には。
少女も俺も、もみくちゃになっていた。
いつも澄ましたように整えられた少女の髪が、ぼさぼさになっていて少し面白い。だが、俺も少女を笑える程の体力は残ってない。人の波に押されながら、少女が転ばないようにするのは苦労した。
噴水に着くと少女はぱちゃぱちゃと顔を洗おうとして、まるで小鳥が遊んでいるかのように水を掬って溢してを繰り返す。その姿はどこか水に怯えながら遊ぶ猫のよう。
だが、これでは日が暮れてしまう。
「こっち向け」
少女の顔を、こちらに向ける。
水を掛けただけで、汚れは落ちてない。
俺のハンカチを水に濡らして、少女の顔を拭く。少し抵抗があるのか、目を瞑る姿は小動物を彷彿とさせられる可愛さがある。それは最初に出会った時の姿を思い出す。
汚れを拭き終わり、少女の濡れた頬が冷たい外気にさらされても冷えないように両手で包んでやる。少しだけ温まる程度だが『奇跡』を乞う。ほんのりと少女の頬が赤みがさすと、目が合った。
少女が両手で手を強く握ってくる。
懇願するような。泣き出しそうな顔をする。
その表情から初めて、強い意志が伝わってくる。
「私を、憶えていて」
夕焼けに染まった街が、黒い影に飲まれ。
色合いを失い、輪郭を崩してゆく。
「忘れる訳がない」
溶けだした街の影が濁流となって、少女と俺の間へと流れ込む。繋げていた手に少女が力を込め、その間へとぬるりと影が入ると驚くほど簡単に繋いでいた手が解けていた。手を伸ばそうと、すでに少女に手は届かない。
暗闇へと消えてゆく少女は、泣いていた。
目の前が暗闇に覆われ。
ざわざわと喧騒が押し寄せる。
喉へと圧迫感を覚え、息苦しさが増す。
足下がなくなったかのような浮遊感に襲われ、気がつくと俺は路地裏に立っていた。ただ街並みは暗くなっており、先程よりも空が狭いように感じれる。それは最初っから、そうだった気もするし違う気もする。
どうして路地裏にきたのか。
それすら思い出せやしない。
ふと視線を上げると路地裏の先、光が差している方に沢山の人の影が見えた。そこから歓声や万雷の拍手が聞こえてくる。祝福のはずの声に不安が増す。喝采の音が頭に響き、頭痛に襲われ動悸が早くなる。
「ああ、聖女様は何と麗しい」
「ママ、お姫様まっしろだね。綺麗だねっ!」
「あの仲睦まじい御二人の姿よ」
「まったくだ、これで王国も安泰だな」
建物と建物の合間から見える光景には、成長した少女とその隣に寄り添う青年の姿があった。遠目にでも分かる少女の特徴は記憶の中にいる少女と何一つとして変わりはしない。ただどうしても違う点がある。それは少女が青年に笑いかけている事だった。
喧騒はすでに聞こえず、先程まであったはずの不安も不快感も何も感じない。気がつけば、そこには何もない暗闇だけが広がっていた。
「俺がいなくても。
笑える場所ができたんだな」
どろりと足に何かが這うのを感じる。
これは夢であり、記憶なのだろう。
思い出す。俺は少女の正体を知っていた。一回目は偶然でも少女の姿は特徴的で、聖女様の特徴を教会に関わる者ならば知らない者はいない。だから、俺はこうなるだろうと予想はあったのだ。
歴代の聖女は皆。
王家へと迎えられている。
この世には魔の力がある。感情には力が宿り、死してなお恨みや憎しみは力を持ったまま残留する。その澱みは呪いであったり、瘴気として身を蝕んだりと様々な形で顕現する。
人々の頂点に君臨する王家に向けられる想いは、計り知れない量となる。だからこそ、魔の力に蝕まれる事のない聖女が伴侶に相応しく。瘴気を浄化できる神官は、どの街でも広く歓迎されるのだ。
だからこそ。
浄化の使えない神官に居場所はない。
少女と会えなくなってから、俺が出来るようになったのは『小回復』と『結界』だけだった。小回復は小さな切り傷を治せる程度の癒しの術。結界も瘴気を入ってこれないようにするだけで、瘴気そのものを消せる訳ではない。
片や落ちこぼれの神官。片や聖女。本来なら出会う事すら叶わない関係だったのだ。記憶の中の少女を想い、寂しさのような何とも言えない感情が胸に湧く。
ここに来て、ようやく俺は理解した。
「俺は少女に、恋をしていたんだな」
気がつけば、暗闇は晴れ。
幸せな夢から覚めた余韻だけが残っていた。
肺に溜まった空気を吐き出して、ふわふわとした曖昧さを無くすように地を踏み締める。これからは身の振り方を考えよう。もう少女との縁が切れたなら、才能のない俺が教会に残り続ける意味もない。
ふと足下に一枚の紙が落ちているのに気がついた。
指を伸ばしかけ、不意に嫌な予感に襲われる。
ただ意思に反して、身体が止まる事はない。
記憶をなぞるように身体は動き、拾い上げた紙の内容を理解する。その紙の内容は『聖女が魔王討伐の旅にでると決まった』というものだった。
「ああ、そうか……そうなのか」
俺は理解した。
俺は思い出したのだ。
すでに視界は暗く、空気が粘りつき吸えず、全身がヤスリで削られるような痛みを告げる。涙が熱された鉄のように熱い。悲鳴にもならない声が漏れ、喉が張り裂けるに痛みを告げる。
魔王など、いないのだ。
魔王とは、人の希望そのものだ。
この世に魔物はいる。人の感情によって侵された魔力は意思を伴う事がある。その感情によって顕現した存在が魔物であり瘴気であり『浄化』によって清浄に戻されるべきものである。
だからこそ。
魔物を率いる"王"など存在しないのだ。
魔物とは人が人へと向けた憎悪であり、嫉妬であり、害意であり。果たされなかった復讐だ。感情だけ残された魔力は想いを遂げようと無差別に人を襲う。人が人である限り、人と魔物の関係はなくならない。
魔物との終わりのない殺し合いに疲れた人々が、夢みた存在こそ"魔王"である。呪いの終着点。魔王討伐とは魔王という幻を追う事で、魔物との終わりのない戦いに終わりがあるのだと、人々が絶望しないようにするための生贄だ。
あの娘は、そんな旅へと出る。
終わりもなく、果てもない旅に。
「ああ、神よ。あなたに感謝しよう」
だから、俺は。
そんな果てのない旅路に。
終わりを与える為に、ここにいる。
痛みが。
苦痛が。
不快感が。
すべてが塗り替わる。
瘴気により蝕まれようが、それでいい。
笑いそうになるのを我慢する。瘴気によって蝕まれる身体を『小回復』で幾度となく修復し、周囲へと張った『結界』が解けないように意識を繋ぐ。あの少女が旅を終わらせる、その時まで。
思い出す、あの紙をみた俺は。
少女を追うように旅へ出た。
旅へでた俺は結界を張ったのだ。それは入ってくる瘴気を拒まずに、出てゆく瘴気を逃がさないようにする結界だ。街にある結界の逆。俺が歩けば歩くほど、その行先にある瘴気を飲み込んでゆく。
瘴気は俺を中心とする結界内に蓄積され、俺が通った場所に瘴気は残らない。歩く毎に瘴気によって息が苦しくなり、疲弊した足が瘴気に蝕まれたのか鈍痛がするようになった。それでも止まりはしない。
歩きながら、思い起こすのは。
昔にあった嫌なこと。
足りない実力。
無為に過ぎてゆく時間。
瘴気が心まで蝕んでゆくのを体感した。
ただそれも、もう思い出せやしない。そういった経験があった事実は認識できるけれど、何があったかまでは思い出せもしないのだ。俺は気がつけば、痛みが記憶を塗り潰すようになっていた。
一歩を踏み出すだけで全身が悲鳴を上げるような激痛に苛まれ、ただ立っているだけで全身が腐り朽ちてゆくような感覚に襲われる。それでも俺は立ち止まる事はなかったはずだ。もう覚えていない。
もう何も覚えていないのだ。両親の顔も教会のチビ達も出会った事のある人々の顔がすべて抜け落ちたように思い出せやしない。あるのはそう。
『私を、覚えていて』
白い少女の姿だけだった。
その姿を想い、苦痛に耐える。
ただそれだけで、俺は十分だ。
瘴気は瘴気を巻き込んで、一点へと滞留する性質がある。今でも結界を通して、瘴気が集うのを体感する。集められた瘴気はありとあらゆる形となり、俺を蝕んでいる。この世にある瘴気が徐々にだが、俺の結界の下へと集いつつあるのが分かるのだ。
全身が腐り落ちて空いた穴から血が流れ、その血が灼熱の鉄のように熱い。これは夢ではない。暗闇で確認できないが実際に俺の身体は想像通りの姿をとっているはずだ。そう思う頃には反射的に『小回復』で命を繋いでいた。
俺の下へと瘴気が集っている今、この世にある瘴気は格段に薄くなっている。ここにある瘴気がなくなれば、魔獣が生み出されるようになるまで時間が掛かるだろう。
つまり、それは。
聖女の旅の終着点ーー終わりだ。
◇◆◇
真っ暗闇の中へ、意識が沈んでゆく。
背後から聞こえていた声が遠くなり、足下がふらいついたかと思えば、ぐらりと方向感覚が失せるような全身から力が抜けるような浮遊感にも似た感覚に襲われた。何が起こったのか。意識は朦朧として、今まで何をしていたのかさえも定かではなくなってゆく。
不明瞭な意識の中。
振り向くと、白い少女が立っていた。
「あの娘が貴方の婚約者ですよ、オービット」
そう言われ、視線を向けた先。
そこで目に止まったのは少女よりも。
近くへと侍るベールで顔を隠す者達だった。
神官に与えられる白い装束は、中でも地位の高い者達にだけ許された権威的な意味があるとされている。ただ少女の近くにいる者達には権力などによる圧ではなく、冷淡で無機質な不気味な圧迫感のようなモノだった。
あの者達は不気味だと、遠目に語る私へと母は語る。
彼らは"聖女を人工的に創る"為にいるのだと。
神による御業とされる奇跡には特徴がある。それは真摯に祈る事により奇跡が洗練され、願いの強さにより力が増すということだ。それを利用して物心がつくか、つかないかという時期の少女へと意識を朦朧とさせる薬を投与することにより思考能力を低下させ"聖女を創る"のだと。
それは。
鳥の刷り込みのようなもの。
意識が朦朧している期間に婚約者である王族以外の顔を覚えないように顔を隠し、婚約者へと依存・執着するように仕向けた上で雑念のない祈りによって聖女の奇跡はより洗練されるのだと母は語る。当時はまだその言葉の意味の半分も理解できなかったが、それでもどこか。
遠くで静かに座る少女を。
「可哀想ですね」
憐れに思えたのを覚えている。
母に優しく頭を撫でられ、瞼を下ろす。
目を開けると、視界には自室の天井が広がっていた。窓辺には穏やかな日差しが差しており、何となく外へと視線をやれば庭園で侍女達が何らかの準備をしているようだった。何かあるのだろうかと考えて、そういえば定期的に聖女が王城へと訪れるようになっていたのを思い出す。
前回に会ったのは、いつだっただろう。
少なくとも、三ヶ月は会っていないはずだ。
憂鬱な気分となり、息を吐き出した。
聖女との時間は私にとって苦痛でしかない。誰が好き好んで感情もないような存在と一緒にいたいと思うのか。最初の頃は話しかけたりもしていたが反応のない相手に会いにゆくのは徒労でしかなく、少女との時間は沈黙で埋められてゆくようになっていた。
物言わない聖女を前にしていると。
責められているような気がしてくるのだ。
聖女という存在は、王族の罪そのものだ。
病的に色を失った肌と髪。意思の光を失った瞳。
人によっては人形のようだと思うだろう。
ただそうではないと私は知っている。
少女はただ奪われただけなのだ。
少女は人形のようではなく。
人形のようにされたのだ。
そして、奪ったのは。
我々、王族だ。
そして。
王族もまた。
奪われた存在だ。
無能である事を罪とされ。
国家の象徴たる存在ゆえに憎まれ、呪われる。
あの日、少女を憐れんだように私もまた王族として生まれた時点で全てを奪われた存在だったのだ。聖女と王族は奪い奪われた存在などではなく、どちらも奪われた存在なのだと気がつくまでにここまでの月日が経っていた。庭園へと向かうべく服を用意するように侍女達へと指示を出す。
何て顔を合わせればいいだろう。
本来なら意思のない少女に対し、そんな事を思う必要はないのだろう。ゆっくりと胸の重くなった空気を吐く。私は勝手に同情して、罪悪感を感じて苦しんでいただけでしかない。私はただ王族の背負う罪から逃げたかっただけなのだ。ある意味で聖女との婚姻は少女の自由を奪った王族による贖罪なのだろう。
だから、私はもう逃げない。
王族として、次期王として。
同族を受け入れよう。
庭園へと踏み入れると。
庭園の東屋にいた聖女が振り向いた。
その姿に思わず足が止まる。今までいくら話しかけても反応しなかった聖女が私を見ているのだ。そして、こちらへと踏み出したかと思えば、二歩三歩とその歩みは速くなる。
今まで人形だと思っていた物が動いたかのような不気味な錯覚に襲われ、反射的に逃げ出しそうになるのを聖女に手を掴まれて叶わない。困惑したままいる私へと聖女は声をかけてくる。
「私を……覚えている?」
何故、そんな事を聞いてくるのか分からない。
覚えていない訳がない。それとも。
放置していた事への嫌味だろうか。
そんな考えて聖女を見れば、聖女は何かに縋るように今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。心の中で何かが掻き回される感覚に襲われる。確信にも似た何かへと至ると同時に、何であるのかを拒絶するように心臓が痛みを告げていた。
すべてを奪われたはずの聖女は。
私ではない誰かに恋をした。
「忘れる訳ないですよ」
許せない。
同族であったはずなのに。片割れのような存在であるはずなのに。私ではない誰かを求めるのは許されない行いだ。本来なら思い出もその微笑みも。すべては私と共に築き上げていくはずの物だったのに。
聖女が語る思い出を頷いて。
今日も誰かの振りをする。
この行為は取り戻すだけ。
それだけの事でしかない。
「オービット王子は普通ですな」
振り向くと大臣と貴族がおり。
その傍には二歳年下の弟が立っていた。
雑音が混ざり、声が遠くになってゆく。
「比べて、オーゼスは優秀だ」
耳元で囁かれ反射的に振り向くと、そこには姿はなく暗闇だけが広がっていた。心臓の鼓動が早まってゆくのを自覚する。落ち着かせようと呼吸をしようにも吸った息がそのまま漏れてゆく。
姿が見えないまま周囲の喧騒は激しさを増す。そんな弟を称賛する言葉が脳の奥でざわざわと木霊し続けて頭が重い。気がつけば、弟への称賛は弟こそ王に相応しいという合唱に変わっていた。
頭が割れそうだ。
「ねぇ、最初のプレゼントを覚えてる?」
そう言われ、視線を上げると聖女がいた。
聖女が私へと向ける瞳には疑心があり。
すぐに気がついたのだと察した。
私が想い人ではないのだと。
ただ私は悪くない。そもそも横恋慕をしているのは聖女の方で私との婚約が先だ。先に裏切ったのは聖女の方だ。それに私は騙してなどいない。嘘も言っていない。昔話に付き合ってやっていただけだ。お前が悪いくせに何故、そんな目で私を見れるんだ。
お前も弟の方が王に相応しいと思っているのか。そうなんだろ、婚姻がなくなれば私が王になる事はないとそう思っているんだろ。ふざけるな。私が今までどれだけ努力して我慢してきたと思っているんだ。知りもしない昔話も聞いてやったのに。
「聖女様が魔王討伐の旅へと行くらしい」
そんな声が聞こえ。
視線を上げると聖女の姿は消えていた。
逃げる気だ。
止めなければ、留めなければならない。聖女に逃げられた王子など前代未聞だ。そもそも聖女がいなくなれば次期国王という立場も危うくなる。ただこんな事をしている間に王宮では弟を支持する層が集まるかも知れない。魔王討伐の旅に同行するならば、それ相応の成果を上げなければならない。
だから、それを見た時。
怖気よりもまず興奮した。
遠目から眺める移動する瘴気溜まりは、ただ動くだけで建物を飲み込んでは廃墟へ変え、農地は不毛の大地にしては逃げ遅れた動植物が死に絶える。まさにこの世の地獄を体現した"それ"の中心には核となる存在がいるというのは明白だった。
右腕が重い。力を込めると右腕へと生温かくドロリとした液体が指から滴り落ちる。気がつけば、私は黒い影へと剣を突き立てていた。意識が明滅して記憶が回帰する。ここはあの瘴気の中。剣を突き立てた影は聖女の浄化によりできた空間を突き進みながらの強行軍を経た先にいた存在だ。
あまりにも呆気ない。
ただ剣はたしかに影を貫いていた。
「オ、オービット王子?」
振り向くと、そこには聖女がいた。
婚約者が居ながら横恋慕する売女だ。
身体が軽い。この空間が。いや、世界そのものが私の背を押しているような気さえする。聖女は私以外の誰かを愛している。ならば、私を必要としない彼女が存在する意味などあるのだろうか。聖女は王族を守る為に存在するのに役割を放棄するという事はその存在を放棄するべきであるはずだ。
右腕に力を込めるといつもよりも力が入り、全能感が迸る。右腕を伝いながら全身へと力が流動するように覆われてゆくのを感じる。そうか、魔王を殺した事により次に私が瘴気を扱えるようになったのか。
一歩を踏み出す。
聖女を守るように騎士共が構えた。
「主人を忘れたのか。愚図共が……」
ならば、お前達もまた同罪だ。
剣を向けようとして、身体が止まる。
振り向くとまだ剣は影へと突き立てられていた。
影の輪郭が動いたかと思うと剣を掴む。即座にその身体から剣を引き抜き、袈裟斬りにする。影には確かな手応えがあり剣身が肩から胴の半ばまでいく所で止まった。そして、また影は何事もなかったかのように再び剣に手を置いた。
意味がわからない。高位の神官であったとしても心臓を貫かれた者を治すのは至難の技だ。そもそも傷が治っても動ける訳がない。背筋へと冷たい物が這う。
「この程度じゃ……死ねないんだ」
影の先から優しげな声がした。
気がつけば、腕から力が抜けていた。
影は剣を身体から抜くと、再び突き立てた。
剣を引き抜いて、また鈍い音が響く。音の度に影から何かが吹き出しては瘴気に反応してけたたましい音が鳴る。イカれている。影は何度も何度も繰り返して肉が壊れる音を響かせる。すでに影よりも剣の方が瘴気により朽ち果てて鉄の塊と化していた。
「オービット王子、ご無事ですか」
「あっ……ああ、大丈夫だ」
呆然と自傷し続ける影を見ていると騎士に肩を掴まれた。先程まであった全能感は失せており、今更になって瘴気に当てられていたのだと理解する。一体いつからだと考えれば、あの意識が溶けてゆくような感覚に陥った時からだろうか。
立ち上がろうとして。
右腕の感覚がないのに気がついた。
視線を下ろすと、腕の途中から先が溶けている。
今更になって痛みと共に脂汗が滲みだす。騎士が大丈夫かと聞いてきたのはこれか。いや、これほどまでに濃い瘴気にさらされて片腕で済んだのなら運が良かった方なのかも知れない。撤退だ。あの影は首を切り落としたとしても死なないだろう。
騎士の肩を借りて立ち上がる。
流れるように白が視界を過ぎり。
気がつけば、反射的に腕を掴んでいた。
「待て、何をするつもりだ!?」
聖女がそこには立っていた。
腕を掴まれた聖女が振り返る。
ただそれは聖女ではなどではない。
そこにいるのは今にも泣き崩れそうな。
ただの少女がいるだけだ。
聖女に何かがあれば、これ程までに濃い瘴気の中を無事に帰還する事は無理だ。ここは瘴気により生み出された魔獣でさえも生まれては死に絶えるのを繰り返す地獄のような場所である。あるはずなのに、どうしてか少女を掴む指から力が抜けてゆく。
止めなければならないはずなのに。ここから無事に帰還する為の唯一の存在であるはずなのに。気がつけば少女を掴んでいた手を放していた。
「……君は可哀想な聖女。
そんな存在などでは、なかったんだな」
少女が近づくと影が威嚇するかのように逆立ち、周囲が蠢くのを体感する。けれど、少女は止まらずに瘴気の先へといる者へと手を伸ばした。粘りついたように人型を取っていた瘴気が薄まる一方で、周囲の瘴気が呼応するように濃度が増している。
もう時間がない。
そう声を発しかけて、思考が止まる。
少女が伸ばした瘴気の先に、白い者がいた。
あれ程に悍ましい瘴気に当てられながら、その肌には染みや傷一つなく。本物だ。どれだけ瘴気に纏わり着かれようとも穢れる事のない白い者。焦点さえも定まらず表情の抜け落ちた顔がこちらを向く。
その瞬間に何かが変わるのを理解する。
ただ何が変わったのかがわからない。
「帰ろう!」
少女が屈託のない笑みで、そういうと。
大地が震え、周囲へと轟音が鳴り響いた。
少女が白い者の手を引き、皆で走り出す。
不意に感じた事に、笑いそうになる。
魔王討伐の旅が、逃げて終わりとは。
無様な私には似合いのーー終わりだな。
◇◇◇
ただこれで話は終わらない。
瘴気が移動した跡は惨状だ。
家畜は死に絶え、農地も腐り。
魔獣を狩る者の仕事が消えた。
瘴気があった場所は地盤から蝕まれ、周囲一体が崩落して一ヶ月が経つ今では大穴と化していた。そんな王国へと齎された混乱と恐怖が更なる呼水となり、今でも地下深くへと瘴気は流れているのだろう。その証拠に地下では瘴気も安定してきたのか魔獣が這い出てきたという報告がされている。そして、すぐに世界各地の魔獣を飼っていた者達がこの王国へと集う事となるだろう。
そんな混迷を極める王国内の情勢ではいくら優秀な弟でも統率できず、今は私ととともに協力しながら政務を続けている。これから更に忙しくなるのを考えると中庭へと行くのはまた今度となるだろう。
そう考えて。
ふと、中庭を見下ろすと。
少女が白い者の頬を引っ張っていた。
「あははっ、ざまぁないですね!」
きっと彼こそ少女の想い人なのだろう。
崩落の中、私達は瘴気の中を駆け抜けた。
浄化をしている余裕はなく、死を覚悟した。
ただ我々が蝕まれる事はなく、皆が無事だった。
それは彼が皆に結界を張っていたからだ。
ただ長く瘴気に抗い続けた影響からか。
脱出後に彼は意識を失うとそれ以降。
何に対しても反応を示していない。
「……忘れないって約束したのにさ」
今日も少女は中庭にいて。
午後から聖堂へいくのだろう。
今までのように。
これからも。
「…………忘れる訳がない」
まぁ、彼が気がつくまでだろうけど。
ここまで読んで下さり。
ありがとうございます。
今作は久々に真実の愛を感じるような作品を読みてぇなという感じで書かせて貰いました。その他にも一人称で白昼夢のような追体験をさせられるのかという実験作でもあり面白いと感じていただけたなら幸いです。