あなたの記憶はございません
あのう······、ええと、この人はいったい誰だっけ?
何で見知らぬ男性に、今私は壁ドンをされているのだろう?
しかもキリッとした顔で「結婚して」とか言われているの?
ちょっ···、本当に、誰なのこの人?
私、まさか若年性痴呆症!?
まるで忘却魔法にかけられたかのように、まったく思い出せない。
私と同年代、アラサーぐらいの長身細身、肩幅だけは広いけど、少し猫背気味のなんだか頼りなげで神経質そうな人。
地味目の顔立ちは悪くないけど、私の好みではないなぁなんて、散々な言われようよね。
突然プロポーズされてもまったくときめかない。
これが所謂『壁ドン』というものかぁ···。
でもそれは好きでもない相手、ましてや見知らぬ人、記憶にまったくない人にされても、全然嬉しくないし、逆に怖いだけだ。
まさかヤクザではないでしょけど、私からしたら不審者でしかないのよね。
当然私はプロポーズの返事などしように無いし、できない。
世の中には交際ゼロ日で入籍する人もいるそうだけれど、私の人生にはそれはあり得ない。
そうでなくても、只今私の脳内は絶賛この人は誰状態なのだから。
だから先ほどからひたすら無言でいる。
彼は少しトーンが高めの声で神経質そうに話す。
ああ、やっぱりこの人は、私の好みではないわ。
人生初のプロポーズをまさか見知らぬ人からされるとは思っても見なかった。
ねえ、本当にこの人は誰なの?
それに、先ほどからまったく話がかみ合っていないのよね。
これって、人違いとかではないのかな?
「まさか、結婚したの?」
「···え? いえ、独身ですけど」
「じゃあ、その子は誰?」
その子とは、公園散歩帰りのベビーカーでニコニコしている私の可愛い甥のことだ。
「妹の子です」
何で見も知らない人にこんなことを答えないとならないのかと、ちょっとだけ苛立った。
もう、今すぐにでもここから立ち去りたい。
自宅から最寄りの公園近くのガード下で、この人に呼び止められていたのだけれど、プロポーズをされたにしては寒い空気の私達の上を電車が通り過ぎて行く。
「あーぅ」
電車が大好きな甥は目を輝かせている。その甥に目を落とし微笑む私に、彼は苛立ちを隠せないようだ。
「俺と結婚できなくてもてもいいの?」
(は?!)
本当にこの人って、何を言っているのだろうか?
なぜあなたと私が結婚しないとならないのか。話がまったく通じない。
「ええ、いいですよ」
「はあ?! 本当に?絶対にだな?」
「はい」
彼がそれでカチンと来たのがわかった。
「他の人と俺、このままだと結婚するよ」
「はい、どうぞ。別に構いません」
彼は怒りで顔を歪ませた。まるで私がさも悪者であるかのように、責めるような視線を送って来る。
私は心底このような人が苦手だ。
一方的に要求してきて、自分の思い通りにならないすぐに怒り出す人なんて、まず無理。
会ったこともない人にいきなり求婚されるなんて普通誰でも驚くものでしょ。
どこの誰だかすらわからないのに、そんなにすぐには答えられないわよ。
彼は「本当に後悔しないな?」なんてしつこく念を押して来るから、私も不快感からムッとしながら答えた。
「後悔なんてしませんよ」
この人ってとんでもない勘違い野郎、自分大好きナルシストじゃないの?
鶏冠に来たのか、「もういい、わかった、後で後悔しても手遅れだからな!」
そう言い捨てると、怒り心頭な様子で彼は去って行った。
「はぁぁ···、疲れた。やっといなくなった」
せっかく楽しく甥と散歩してたのに、疲弊して一気に嫌な気分になってムカムカした。
もう、なんなのよあの人。異世界から来たのかぐらいに話がかみ合っていなかったわ。
私と彼の不毛なやり取りなどどこ吹く風で微笑む愛らしい甥に癒やされて、自宅に帰り着く頃には気分は回復していた。
「あっ、さっきね、あなたを訪ねて来た人がいたのよ」
「えっ?誰?」
「今まで見たことのない、あなたと同年代ぐらいの男の人だったよ」
母がその人の名前を聞いておいたので、それを聞かされてもまったく私の記憶に無い人だった。
「彼氏とかじゃないの?」
「ち、違うよ、全然違うから。やだ、誰だろうその人···」
見知らぬ訪問者なんて、なんだか気持ちが悪い。
まさか、さっきあのガード下で会ったあの人なの? 何で私の自宅まで知っているの?
私は今更だったけれど、ゾワリと全身に悪寒が走った。
これって、ストーカーとかの類い?
プロポーズを断って仕返しとかされない······わよね?
取り敢えず、さっき怒ったあの人に危害を加えられなくて良かった。
今後外出にも気をつけなくちゃ。防犯グッズを揃え、携帯電話と固定電話の番号もすぐに変えた。
プロポーズされた日のニ、三日前に私のことを近所の人に聞きまわっていた男がいたみたいだと母に聞かされて更に驚いた。
ひぃぃ、止めてよそういうことは。
私はそれから結婚するまで、社員寮に入ることにした。
女子寮には守衛も常駐している。
その後も個人情報やセキュリティには気をつけていたけれど、あれから彼はやって来なかったのでほっとしていた。
結婚してからは社宅に移った。少し古めの部屋だったけれど、それでも収納スペースも豊富で使い勝手もよく満足していた。
結婚三年目のある休日の午後、来客を告げるチャイムが鳴ったのでインターホンで応答した。
「はい、どちら様でしょうか」
「久しぶりだね、僕だよ、僕」
「?」
不審に思ってモニターを覗いて確認すると、あのガード下で私を呼び止めてプロポーズした男が、ドアの向こうでヒラヒラと手を振りながら嗤っていた。
(了)