いいことなら、それでいいの?
善は急げとばかり、いいこと、めでたいことならば、相手や当事者の許可もなくグッドニュースとして世間などに我先にさらしてしまう。
それは本当にしていいことなのか?
メディアだけでなくて、個人でもそのような人もいたりする。
いいじゃん、いいじゃんと、何でもなし崩し的に押しきってしまう、
おめでたいんだから、いいじゃないか、その人にとって喜ばしいことなのだからという勝手な解釈でごり押しする人には、実はあまり良い人はいなかったりする。
そのような人は独善的だから、バツイチとかも結構多い。
そんな人に限って、自分はいいことをしているつもり、自分は良い性格の人だと信じていたりするから面倒だ。
いくらおめでたいことでも、まだ公表したくない、直前まで伏せていたい、秘匿したい人もいるのに、
自分が自分が、私が私がで、なぜか本人でもないその人が真っ先に、我先に言いたがる。
まるでそれが、自分の手柄であるかのように。
「ちょっと、何で勝手にみんなに言ってるの、まだ言わないで欲しかったのに!」
「ええ、いいじゃん、いいことなんだし」
「良くない!私はまだ知られたくないのよ」
いいことならば、いいじゃんという思考や認識の人は、話が通じない。
だから悪びれることもなく、反省しないから、何度でも同じ轍を踏む。
このような人は、この人だけには黙っておこう、絶対内緒にしておこうという対象に段々なってゆく。
勝手に晒してぶち壊す人だからだ。
いいじゃん、いいじゃんで押し通す人は、結構いい加減、無責任で何事にもルーズ。
だから人から信用もされない。
考え無しのポジティブ狂いな人は、迷惑な時もある。
そりゃあネガティブよりはポジティブの方が良いのは確かだけど、でも、良いこと、ポジティブなもなのらば何でもいいという解釈には落とし穴がある。
それは、自分と相手のポジティブは違い、必ずしも同じではないからだ。
何がポジティブかは、個々では微妙に違うものだ。
自分はこれはいいことだと喜んでいるものであっても、相手や周囲は自分と同じように喜ぶとは限らない。
これはポジティブなものなんだからいいよねという勝手な解釈で、相手の許可を得ずに先走ってやる人は自己中な人の方が多い。
ポジティブだから自分は悪くないというのは、思考停止、誤ったポジティブ病だ。
ある時私は、自分のブログやSNSに急にアクセスが増えて、なんだろうと不思議に思った。
足跡を辿ってみたら、サイキックな占い師のサイトで、「今オススメの人」「イチオシの人」として、どうしてそうなっているのかわからないけど私が紹介されていてビックリした。
オススメって何? 何のイチオシ?
それで一時的にアクセス数や足跡をつける人が増えていたのだと理解した。
自分をオススメしていただけるのはありがたく、光栄なことではあるけれど、私の知らないところでこのように晒され、注目させられてしまうことに困惑した。
デビューの予定なんてないし、それはまだまだ先のことだ。
できれば、デビューするまでは放っておいて欲しい、要らぬ注目は避けたいのが本音だ。
私は自分のペースでやりたいから。
私はチヤホヤされるためとか、注目されたくてやっているわけではない。
その人は、悪い人ではないのでしょうし、良かれと思いやってくれているのはわかるのだけれど······。
許可無しに自分が知らないところで晒されているというのがモヤモヤしていた。
一応御礼を言って友人登録はしたけれど。
私が夢を叶える系のブログを当時は書いていたので(今思うと超絶恥ずかしい······)、それで自分の夢を実現できるポテンシャルの高い人として私を推して紹介してくれたわけだった。
その時はまだ色々準備段階で、実現はもっと先のことだと思っていた。
そのうち転勤で引っ越したので、それを機にブログやSNSは一旦退会した。
引っ越した後に新たなアカウント、新しいメルアドでまっさらな状態で一からはじめたら、
またその人に見つけられてオススメされてしまっていて、ぎょっとした。
私、追尾されている?
できれば離れたかったのに······。
それに、また私の許可もなく新しい私のブログを晒していた。
私に良かれと思ってしてくれているのだとしても、 本当はこういうことをして欲しくないのだけど。
この人に監視されているみたいで嫌だった。
しばらくしてから、私は自分をオススメしてくれるのをやめて欲しい、私以外の他の人をオススメして欲しいと頼んでやめてもらった。
なぜ私がオススメとして紹介されるのが嫌なのか、その人には最後までわからないようだった。
いいことなのに、どうして?
人からオススメされるなんてラッキーなのにどうして?
これってありがたいことなのに、それを断るって何?
というところで止まっているのだと思う。
いいことならば、いいことだったら何をしてもいいとは限らないのにね。
何がその人にとってポジティブなのか、何がラッキーなのかは、人それぞれ。
これをすれば相手が喜んでくれる筈、これは相手のために絶対プラスになるからいいわよねという思い込みや決めつけは危険だし、人によっては余計なお世話なこともある。
そこに絶対はない。
例外だってあるのだ。
嬉しい、楽しい、ハッピー、ラッキーと感じることも千差万別なのにね。
いくらいいことだとしても、相手の許可を得ずにやるのはどうなのかなと思う。
自分がされて嬉しいことを他者にもしてあげる
それ自体は善であるけれど、相手がそれを本当に欲しているのか、それをその相手は本当にそれを望んでいるのかという見極めも重要だと思うのよね。
相手に頼まれてもいないのに、許可もなくやることは、例え善でも、ありがた迷惑なこともあるものだ。
行きすぎた善意や行きすぎたポジティブは、空回りするように思う。
いいことだとしても、独善的ではせっかくのものが無になってしまうから、状況判断や相手の意向を無視しないようにしないとならないわよね。
良かれと思ってやったのに、相手から嫌がられてしまう、それはとても残念なことです。
良かれと思いやって、その結果、かえって相手の邪魔をしたりぶち壊すことになってしまったら、それは迷惑にしかならないですしね。
それに、その人は気がついていないのかもしれないけれど、
自分自身が誰よりも誰かに注目されて脚光を浴びたい、誰かにオススメしてもらえる存在になりたかったのだろうね。
行きすぎた善意の正体は、本当は自分自身が誰かにそれをして欲しくてたまらない、飢餓状況なのではないのかな?
お節介過ぎる人は、良い人だからよりも、本人が満たされていない何かを抱えていたり、承認欲求の裏返しだったりすることもあるのよね。
誰もがみな空回りしないで、適切に人に与えることができると良いのにね。
サイキックな人ですら、それがまだ充分ではない人もいるのよね。
私もだけれど、どんな人でも死ぬまで修行は続いてゆく、そんな気がするわ。
(了)