僧衣
京の町に某天皇の落胤と言われている破壊僧がいた。
酒も肉も食らい、女も男も貪った。詩を詠む風流人の顔もあった。
いかにも、元王族や元貴族の人って感じ。
それってある程度お金無いとできないしね?
彼が反骨精神が強く、民衆に寄り添う僧侶だったと言われているのは、自分の理不尽な身の上からの反発だろう。
ありのままに生きる、ありのままという悟りだと言うが、それは本当だろうか?
本当に悟った者が七十過ぎて女を囲うものなのだろうか?
執着、 煩悩だらけだ。
彼の生涯は、僧衣に守られ、僧衣で誤魔化されていたように僕は思えてしまう。
出家なんてフリでしかない。
ありのままで良いのならば、なぜ僧侶のままだったのか?
中身はどうあれ、僧侶のフリをしないと殺されてしまうからに過ぎない。
立場的に公家にも武士にもなれず、身の安全のためだけに僧衣を纏っていたに過ぎない。
完全に天皇家と切れていたわけでもなく、常に後ろ盾が細々とでもあったわけだからね。
彼は民衆とは違って、一般人ではなかったんだから。
口ではどう言っていても、常に誰かに見守られ(天皇家絡みの人に)ていたわけだからね。
本人は反発し嫌がっていても、出自絡みのコネやツテが最後まであったんだよ。
破天荒、風狂でも害されず、目こぼしされ、一目おかれたのはそのせいでもある。
ほんまもんの一般人ならそんなことをしたら処罰されたり処刑されてしまうよね。
この人に限らず、そういうものでしょ?
それを周りの人や後世の人が本人の人徳とか幸運という言葉でカムフラージュされて、煙に巻いて語られてしまうなんてよくあることだよね。
そんな風に守られているところでの、悟りって何なのだろうか?
現代にも、そういえばそんな人もいたね?
「ありのまま」「何ものにも囚われない」を履き違えているだけなのに、悟った風を装おう似非は、スピリチュアル系、宗教系にはごまんといる。
自己欺瞞でしかない人は多い。
ただその人が有名かどうかだけの違いなだけ。
有名だから本物とは限らない。
歴史に残って来た人、歴史上の有名人って、結局は、支配者層との絡みのある人なんだよね。
特に有名な人ほどそうなんだよね。
そこそこの人とか、それほど有名ではない人の中にこそ本物がいるのかもしれない。
市井に紛れて目立たない、そのような人が本物だったりするのでは。
最近、本当にそう思う。
本物なのに消されてしまった人は、歴史の表には出ては来ない。
どれだけの本物の人達が無名という立場におかれて来たのだろうか。
それでも僕は、彼が僧衣を脱いだならば、一定の評価をできたかもしれない。
僧衣を脱いで、還俗して一般人として生きたならね。
ありのままに生きるって、僧侶でなくても良いわけだからね。
身分なんかは関係無いわけだから。
僧衣を捨てられなかったこと自体、本当の自由にはなれていないわけで。
僧衣がなくても、ありのままを貫くことをできたなら、きっとその人を僕は信じることができたかもしれない。
僧衣の中に自分を閉じ込めて、あの手この手で自分を誤魔化す。
そこに真のありのままも、自由も無い。
僧衣は自身の盾であり鎧。
その人の生き方、その人の人生を否定はしないけれど······
僕には彼が僧衣を着たパフォーマーにしか思えない。
当時のパンクロッカーみたいな感じだよね。
でも実は、なんだかんだ言ってもお坊っちゃん。
坊様だけに?!
高位や中流以上から出家した人は古今東西いるけど、本物は大抵清貧生活、簡素なものなんだよね。
平民や底辺からなった人は、その後の活動で寺院や神殿とかに富をもたらしたから、名前が残っていたりする。
その本人は敬虔で生涯清貧でも、周りや後世の人がその人のせいで潤っているわけだよ。
教会だってキリストの威光、寺も仏陀のお陰で儲かっているわけで。
庶民への貢献度よりも、その業界への貢献度が大きい人、業界を儲けさせた人が結果的に有名になることの方が残念ながら多い。
カリスマは諸刃の剣。
そのカリスマに乗っかってついて行く人もいるからね。
宗教家とかスピリチュアルリーダーもある意味カリスマだからね。
真偽を見極められないと、悲惨なことになる。
偽物を本物だと信じ、本物を偽物だと勘違いするだけだよね。
求めよさらば与えられん
それすらも、与えられるものひとつひとつを、自分自身で見極めないとならないわけで。
思考停止で受け身なだけじゃだめなんだよね。
······はあ、この破壊僧のレポート、どうまとめて書こうかな。
あの先生は手強い(面倒だ)からな。
僕みたいな持論を展開すると、疎まれ辛い点数をつけられるだけなんだよな。
先生とかは自由な発言や発想なんか求めちゃいないのさ。
個性がないとか言ってる割りに、実際は個性とか必要とされてなかったりする。
先生が扱いやすいもの、受け入れやすいものを好むからね。
自分のキャパ内に収まり同調する者を可愛がり、自分に反するものは否定か潰したがるものだから。
出る釘は打たれる。学校ですらそうなんだよな。
相手や周囲の期待にそぐわないものは排除されやすい。
本音と建前のギャップが激しいこの国は、とかく生きにくい。
ことなかれ主義で、悪や不正にも目を瞑り自己保身、上手く立ち回ることができないと、成功や出世コースから外れる。
出世なんか求めちゃいないけど、それでも巻き込まれるし、そういう勢力から身を守らないとならない。
社会に出るってそういう世界に足を踏み入れるということだよね。
それって想像しただけで息が詰まる嫌な世界だ。
だから結局、本音と建前を使い分けて自分を都合よく誤魔化せるもの、逃避できるもの、自分が実際よりもキラキラして見えそうなものばかりが人気なんじゃないの?
それは本来のスピリチュアルとは真逆な気がするけどね。
ああ、そろそろバイトに行かなくちゃ。
今やっているのは、実は托鉢のバイト。
僧衣なんて誰でも身に纏うことができてしまうものなんだよね。
コスプレだってあるしね。
あーあ、寒いからやだな······。
僕は今日も煩悩だらけだ。
(了)