沈み行く船にアリシアは残ってみた
一体どこで、誰に呪いをかけられたのかわからないけれど、どうやら私は呪われたようだ。
その呪いは『アリシアは幸せになってはいけない』というものだった。
この数ヶ月、いつも通りやっているのに仕事も行き違いなどで失敗続き、顧客となぜかトラブルになるので困っていた。
カウンセラーに相談するも原因はわからず仕舞い。
そればかりか、欲しくて買った物をなぜか失くす、すぐに壊れるということが相次いだ。危うく車に轢かれそうになるとか、何も無いところで転倒したり、物が上から落ちてくるような目にもたて続けに遇うようになった。
このまま同じようなことが続くならば仕事を変え、転居しようと考えていた。
「あんたを呪った人がいるね」
今後の身の振り方を悶々と考えながら、オフィスから駅に向かう道を歩いていると、通りすがりの七色に髪を染め分けたド派手な老婆にそう言われてしまった。
「アリシアは幸せになってはいけないそうだよ」
「えっ?」
「身近な人物だから気つけな」
振り返ると、老婆はキックボードにでも乗っていたのか、既に20メートルほど先で手を振っていた。
呪い?
まさかと、アリシアは身震いした。
先週そんなやり取りがあったのを思い出したのは、故障し浸水の恐れがあるため乗客の避難がはじまったクルーズ船の上だった。
救命ボートが海に降ろされ、配られた救命胴衣を着用した人々がボートに乗って行く。
このクルーズ船には誕生日のパーティーに友人達と一緒に招待されていた。
先に避難した友人達がボートから私の名を叫んでいる。
「アリシア、早く!」
「シア、急げ!」
自分の手元には救命胴衣が見当たらなかった。受け取り損なったのか、それとも数が足りなかったのかもしれない。
これも呪いの影響というものなのだろうか?
今日は他の誘いも受けていたので断るつもりでいたのに、先方の都合が急に悪くなり土壇場でこのパーティーに参加することになってしまった。
こんなことになるなら、来なければ良かった······。
爆音がして、ガクリと船体がかしいだ。
私よりも友人達の方が悲鳴を上げている。
「シア!」
私を心配して、ボートから立ち上がりそうになっているロバートを他の友人が必死に押さえつけているのが見えた。
なんだかすべてが他人事に思え、スローモーションで再生されている映像をただ傍観しているような感覚に襲われている。
逃げなければとか、助からなくてはという感情がどうやっても湧いてこない。
死にたいわけではなく、生きることを諦めているわけではないのに、私はどうしてしまったのだろう。
自分が自分ではないみたいだ。
「シア!まだ間に合う、早く飛び込め!」
叫び続けるロバートの体にすがっているのは、彼の婚約者であるデニスだ。
ロバートとデニスが上手くいっていなくて、婚約の解消も秒読みだと皆が噂しているのを知っていた。
だから私は期待してしまっていた。
デニスと別れたら、私とロバートがまた昔のように付き合えるかもしれないと。
幼馴染みだった彼への想いに気がついたのはロバートが一年前に婚約してからだった。
いつも自分の傍にいてくれるのが当たり前になりすぎていて、喪失感を覚えるまで気がつけなかった。
ロバートの腕を掴んでいるデニスと目が合った。
デニスはいつになく黒い瞳を輝かせていた。彼女の瞳は普段はあまり生気を感じられない、どこか暗さのようなものがあった。
そんなところにミステリアスな魅力を感じる人もいるのかもしない。その暗い瞳が今は生き生きと生気に満ちて煌めいている。
ああ、私がここで船と共に沈むのを、私がこのままこの世から消えることを彼女に望まれているのだ。
私への呪いはきっと彼女からのものなのだろう。
それを悟った私に気がついたのか、デニスは不適な笑みを浮かべながら、私へ投げキスを寄越した。
これで呪いの主が決定的になった。
「テリーはどこだ?」
「船長はまだ船の中かもしれません」
クルーズ船の船長テリーは救命ボートにまだ乗っていなかった。
私はロバート達に右手で敬礼すると、踵を返して船室へ戻った。
「アリシア?!」
呆然とする彼らを振り返ることなく、浸水が酷くなる通路を急いでテリー船長を探しに向かった。
まだ舵を握っていた船長を見つけた頃には、再び爆発が起こり、退路が断たれた。
浸水する水の圧力でドアが開かず閉じ込められてしまった。
私とテリー船長は脱出できずに船と共に海に沈んだ。船長は泳ぎが達者で命拾いをしたが、 全く泳げなかった私は、デニスの期待通りこの世から去った。
遺族や友人は、脱出しようと思えばできたのに、なぜ私がそれをしなかったのか憶測を巡らせた。泳げなかったので気が動転してしまったのではないかということで落ち着いた。
それから2ヶ月後、ロバートとデニスは正式に婚約を解消した。
デニスが甲板に立つアリシアに、嘲笑うように投げキスを送ったのを友人が目撃していて、彼女の性根の悪さが露呈したのが決定打になった。
ロバートは、アリシアを喪って自分の想いに気がついた。だが彼女はもうこの世にはいなかった。
デニスと別れてから数年、彼は喪失感と後悔を埋めるために荒れ狂ったが、こんなことをしてもアリシアは戻って来ないと気づき立ち直った。彼は生涯独り身だった。
本来の運命では、アリシアの伴侶はロバートであり、二人が設けた特別な異能を持つ子供達が、この国に重要な影響を及ぼすことになる筈だった。
その損失は、半世紀ほど時代を停滞させることになるだろう。
デニスがアリシアを呪っていたことはあの老婆以外には誰も知らない。
アリシアを失った者達の無念だけではなくて、アリシアと未来に関わるはずだった者達の運命や人生までも狂わせてしまったことに、デニスは全く気がついていなかった。
人一人呪うということは、その人に連なる大勢の人達を呪ったのと同様であり、大勢の人生や未来を奪い傷つけたことの返しが来るものなのだ。
それをカルマを背負うと表現されることもある。
どのような人であっても、人は一人では生きてはいないものだからだ。
アリシアさえ不幸になってくれればとか、アリシアさえいなくなってくれたらという呪いは、決してそれだけでは済まないものなのだ。
残慮極まりない者が、短絡的に他者を呪えば、その膨大なツケ(カルマ)を払うことになるのだ。
呪いの教本、呪いの手引きは、そこまで教えはしないのだろう。
***
「アリシア、なぜあの時脱出しなかったのだ?」
「呪いに気がついても、私は泳げなかったので、あのまま海に飛び込んでも、どのみち助からないと思ったのです」
「飛び込めばロバートが命懸けで助けていたぞ」
「······そうだったのですね」
「理由はそれだけか?」
「自分の浅ましさを恥じたからです。ロバートとデニスが不仲の噂を知ってから、別れることを待ちわびていたのですから、私を呪ったデニスと私はそれほど変わりません」
「ふむ、お前にもう一度チャンスをやろう」
私を守護する神にそう言われて、時が巻き戻された。
今度はなんとしてでも泳げるようにしておこうとアリシアは思っていたが、残念ながら巻き戻しは、沈みそうな船上からのやり直しだった。
「シア!早く飛び込め!」
ロバートが叫ぶ中、私は腹をくくって海へ飛び込んだ。
神から聞かされていた通り、溺れそうな私をロバートが救い出してくれた。
デニスが私に放った投げキスは、その時船室から出て来た人物を振り返った私を素通りして、私の少し斜め後ろに立っていたテリー船長への秋波となって直撃した。
ロバートとデニスが婚約を解消をすると、テリー船長はすぐさまデニスに求婚し、私達よりも先に結婚してしまった。
こんな結末も悪くはないかな。
(了)