春が来たなら
雪がちらつきはじめた家の外をリリーは溜め息混じりに窓から見つめた。
リリーには8年前から婚約者がいたが、彼は王都で暮らしているため、雪に閉ざされる季節には会えなくなってしまう。
幼い頃は、春が来たらまた会えるなんて呑気に構えていられたのだけど、歳頃になると、婚約者の浮気が心配になってしまう。
この婚約自体が政略的なものだから、雪深い季節に雪を踏み分けて何としてでも私に会いに来る、そんな情熱は彼には無い。お義理の短い手紙を寄越すのみ。
冬場ではなくても、最近は他の女性の影があるという噂が、辺境暮らしの私のもとまで届いて来る。
特別好きでもない婚約者に会いにゆく頻度を減らせる冬場は、彼はこれ幸いと奔放に他の女性達と楽しんでいるようだ。王都にいる社交好きの友人がそれを逐一手紙で教えて寄越すものだから、知りたくなくても知ってしまうのだ。
そうやってここ3年ほど毎年やきもきして過ごすのは私の方だけ。
そんなのはもう慣れっこに······なれるわけない!
今年は王都に冬の間だけ私が滞在しようと思っているという手紙を出すと、君は来なくていい、来ないでくれという返事が来た。
何よそれ?!
結婚してからも愛人を持つ殿方はいる。夫人だって男を囲っている人もいるにはいる。
でも、結婚前から浮気放題って···
どこまで舐めてるの!
父には彼の浮気を報告しているが、まあもう少し様子を見なさいとなだめるだけ。
こちらが子爵でむこうが侯爵だから、こちらから破談を切り出せないということなのだろう。
私は婚約者にも友人にも知らせずに、今年の冬は王都で暮らしてみることにした。
彼の実態調査と、自分の新しいお相手探しに夜会に参加してみようと思ったからだ。
彼とはいずれ婚約解消するとして、その前に自分の次の相手の目星をつけたっていいわよね?
彼の浮気に比べたら、可愛いものだわ。
浮気をする人って、自分の恋人や伴侶は浮気はしない筈だとか、別れることはない筈だと思い込んでいるなんて、馬鹿なんじゃないかしら?
自分はやってもよくて、相手に自分と同じことをされるのは許さないとか、頭がおかしいわよね。
それに、友人にも知らせずにというのは、彼について色々手紙で教えてくれる友人、彼女こそが最も怪しいと思ったからなの。
私よりも親しくしていないとわからない内容ばかりを毎度送って寄越すなんて、そんな人、彼の恋人しかいないでしょ?
友人に恋人を盗られる、その場合は恋人も友人も同時に失うというのは本当ね。
でも、私は彼のこともその友人のことも元からそれほど好きではない。二人とも信用できない人だったから、ダメージは僅かで済む。
不誠実な友人も恋人も、私にはまったく必要ない。
浮気の証拠を掴んで、二人から慰謝料を踏んだくれば気が済むわ。
それよりも、私はちゃんと恋がしてみたい。
脈なし婚約者に縛られて、恋もできずにやきもきするなんて、時間とエネルギーがもったいない。
私は今18歳になったばかりだけど、一年なんてあっという間よ。不実な婚約者を待ちわびていたら10代なんてすぐに過ぎてしまうわ。
彼なんかのために自分の貴重な若い時間を無駄に消耗するのは耐えられない。
この時のためにダンスも作法も特訓した。流行りのドレスやメイクもリサーチしたわ。
婚約者にも見せたことのない姿で夜会に出るのよ。婚約者は私には気がつかないかも!?
さあ、出掛けよう。いざ、出陣!
エスコートだけを王都に住む親戚の叔父に頼み、私は夜会の会場へ進み出た。
辺境暮らしの私はデビューの時ぐらいしか王都の夜会に参加したことがない。婚約者から参加を請われることもなかったから、今夜が私の新しい第一歩だ。
壁の花でもいいから、見学するだけでも価値があるわ。
新参者というだけで注目されるのはわかっていた。
あまり見かけない令嬢というだけで、関心を引く筈だ。早速数名の令息に名前を聞かれた。
「リリー·アレン子爵令嬢です、どうぞお見知りおきを」
「踊っていただけますか?」
「はい、喜んで」
婚約者はおりますが、今宵は不在のようでと答え、数名の令息にダンスを申し込まれた。ダンスをしながら婚約者を探したが見当たらない。
よそ見をして相手の脚を踏んでしまっては失礼だから、もう婚約者のことは気にしないことにした。
飲み物を手に取って休んでいるとまた男性が声をかけて来た。
「レディ、よろしかったらわたくしと踊っていただけますか」
そう言って近寄って来たのは私の婚約者だった。
「デヴィッド様、お久しぶりでございます」
リリーは令嬢式の挨拶をわざと恭しくした。
「···? どこかでお会いしたことがありましたか?」
「ええ、ございますわ」
デヴィッドはしげしげとリリーを見つめると、次第に青ざめた。
「リリー!?」
「はい、あなたの婚約者リリーですわ」
「なっ、なぜここに?」
狼狽えるデヴィッドを凝視していると、甘ったるい声で彼の名を呼ぶ令嬢が近寄って来た。
「デヴィッド様、私という者がいるのに、おいて行くなんて酷いですわ」
「マッ、マーガレット、おまえつわりが酷いから今夜は来ない筈じゃ···、あっ」
彼が自分のポロリ発言に気づいた時はもう遅かった。
「まあ、おめでたですの? それはそれはおめでとうございます、デヴィッド様、マーガレット様」
リリーは慇懃無礼に祝いの言葉を述べた。
「こっ、これは、違うんだ! これは···」
「デヴィッド様、私を捨てる気ですか?」
「まさか!浮気までして必死にお二人でこしらえたお子様をデヴィッド様が捨てるわけはございませんわ、ねえ、そうですわよね」
デヴィッドに向かってリリーは笑顔で圧をかけた。
「···リリー?」
私がリリーだと気がついたマーガレットは、突然泣き出した。
「ゆ、許してちょうだい、私デヴィッド様をずっとお慕いしていたのよ、でも、あなたのために諦めようとしたの、ううう····」
実に白々い演技ですこと。涙出ていないし。
「なっ···、おまえの方が俺をグイグイ誘惑してきたんじゃないか!」
「ちっ、違うわ、私、そんなことっ···」
「茶番はそこまでにしていただけますか?デヴィッド様、婚約解消ということで、慰謝料を請求させていただきますが、よろしいですよね?」
「おっ、おまえだって婚約破棄したらキズものだぞ、それでいいのか?」
「はい、それで結構です」
「ハッ、おまえなど子爵家ごと侯爵家の力で潰してやる!」
逆ギレする婚約者にリリーは引いた。没落侯爵家にそんな力があるのかしらと思いながら。格下の子爵家に資金援助してもらうための縁談だったのに、この人、何やっているのかしら···。
「フッ、本当にそれができるのかな?」
リリーの後ろにいつの間にか立っていた黒目黒髪の令息が嗤った。
「なっ、なんだと?」
その令息は夜会では見かけない顔だった。
「オリヴァー殿下」
リリーが振り向いた。
「···殿下だと?」
デヴィッドとマーガレットは凍りついた。
「隣国の王弟殿下ですわ。私の叔父ですの」
「私の可愛い姪が随分世話になったようだが?」
オリヴァーが睨みつけると、すごすごと二人は退散した。
「叔父上、来て下さってありがとうございます」
「可愛い君のためならば、どこへでも馳せ参じるよ」
「まあ」
「それで、君は受け入れてくれるのか?私との結婚を」
オリヴァーは叔父といっても血縁ではない。
普段は行き来もなく冠婚葬祭の時などにごくたまに顔を合わせるぐらいの距離感だった。歳の離れた遠縁の兄のような存在だった人からの求婚は、今夜数年ぶりに偶然再会した時にされたばかりだ。オリヴァーはリリーの父から婚約者との事情は聞いて知っていた。
「その前に、私と1曲踊っていただけますか?」
「ああ、喜んで」
リリーは、思いきって王都に出てきたのは正解だったとしみじみ実感した。
白雪のような髪と貴石のような青い瞳を輝かせて、オリヴァーへ微笑みかけながらリリーは妖精のように軽やかに舞った。
かつては人見知りで泣き虫だった小さな女の子は、数年後見違えるほど強く美しく成長していた。
オリヴァーは、自分の妻にするならリリーしかいないとこの日決意してしまうほど心を奪われた。
今宵の夜会で最も注目を浴びたご両人は、 冬が去り春が来ると、大勢が祝福を向ける中結婚した。
(了)