白藤の方
お蔦は17になった年に侍女として時の将軍の元に上がった。
父と祖父らには、もしも殿の側女に望まれたならばその時は殿の寝首をかけと言い聞かせられていた。それができぬならば自害せよと。
お蔦はとり潰された大名の娘、本来ならば一城の姫であったこともあり、侍女としては破格の待遇を受けた。大部屋ではなく最初から一人部屋を与えられた。 お蔦の美貌からじきに側室にされるのではないかという噂で持ちきりだ。
まさか本当にそんな日がやって来てしまうのだろうかと、お蔦は父らに手渡された短刀を隠し持ちながら怯える日々を過ごしていた。
特別扱いをやっかんだ侍女達からは、お蔦の部屋の障子を破ったり汚していく嫌がらせを受けていた。
お蔦は仕方なく、自分で補修をはじめた。花などの形に切りぬいた紙を糊で張って穴を塞ぐようにし、紅葉の時期には紅葉を、冬は椿を、桜の時期には桜を、藤の時期には藤の花を模して修繕した。
それが見事なできばえだったので、かえって評判になった。そのうち嫌がらせは止まったが、十になる嫡男の千丸が、お蔦がどう直すのかを面白がって穴をわざと開けに来るようになった。千丸は「お蔦、お蔦」と親しげに呼ぶようになっていった。
ある日、誰かがお蔦の部屋の障子にまた新たな穴を開けた。千丸だとばかり思ったお蔦は「今度は何の形にいたしましょうか」と障子の向こうにいる相手に声をかけた。
その穴からこちらを覗いている者と目が合うとお蔦は凍りついた。その者の鋭い眼光に射ぬかれたからだ。
殿本人が来ようとは思っていなかったお蔦は激しく動揺した。
障子越しに「なるほど、見事なものじゃな」という声を聞いた。
「この穴が塞がった頃にまた参る」
声の主は去って行った。
翌日の夜半を過ぎて殿はやって来た。お蔦は「どうか私をお手うちにしてくださいませ」と自らの短刀を差し出した。
お蔦には殿の寝首をかくなどということは到底できなかった。そして自害することもできなかったからだ。
「その必要はない。そなたはこれから白藤と名乗れ。藤は富士と同じ不二ゆえ縁起も良かろう」
それ以来、お蔦は殿の寵愛を受け、白藤の方と呼ばれるようになった。
子を授かることなく三年が過ぎた。相変わらず寵愛を受けていたが、子がいなかったために地位は低いままだったがお蔦はこれで良いと思っていた。
千丸が元服してもなお子が授からなかったのは、お蔦が身籠らないように薬湯を密かに飲み続けていたからだった。それは父達へのせめてもの罪滅ぼしと、無用な権力争い、子が跡目争い等に巻き込まれることなくひっそりと日々を送りたかったからだ。
殿からの寵愛が遠のいても、城内の障子の装飾役を任され、奥方や側室の方々の好みや要望に応じて色とりどりの和紙を使い丹精込めて仕上げていった。
相変わらず自分の部屋の障子は白一色の紙で装飾していた。
それから30年が過ぎ去った頃、殿が病に倒れた。
「我の寝所の障子をそなたの部屋の如く白で埋めよ」
殿からの希望に沿って、富士の山と白藤、不老不死の仙女、そして白鳥を施した。
今にも羽ばたきの音が聞こえて来そうな、生き生きとした白鳥に、殿は満足げに微笑んだ。
回復してはまた寝込みというのを何度か繰り返していく間、殿は奥方や他の側室ではなく、お蔦をまた傍においた。
藤と不死をかけて縁起を担いでのものだろうと誰も文句は言わなかった。
「そなたはまこと欲がないおなごであったな」
「白藤はただの障子屋でございますから」
「ははは」
殿がみまかられ、千丸がその跡を継いでも、白藤は重宝され丁重に扱われながら生涯を城で過ごした。
お蔦は晩年、自分の部屋の障子には花ではなく鳥を好んで装飾した。
お蔦が亡くなったとされる時の詳細がどこにも記されていなかったのは、お蔦が部屋から忽然と姿を消したからだ。そして部屋の障子の中の一羽の白鳥の装飾がくりぬかれたように消えていた。
お蔦はあの消えた鳥とともに城を去ったのだとか、殿がお蔦を白鳥に乗って迎えに来たなど噂されたものだが、それが事実であるかは定かではない。
(了)