菊子の契り
「菊子、若君は本当に殿のお子か?」
今も昔も二人きりの時は菊子と呼ぶのはこの乳兄弟だけだ。みなは他の名で呼ぶ。
今では乳母ですら呼んではくれぬ私の名だ。
「···兄様までそのようにお疑いなのですね」
「では、本当に殿のお子なのじゃな?」
菊子は明言を避けた。違うと答えれば騒ぎになるし、そうだと言えないのは自分でも確信は持てないからだ。
この自分の腹に孕んだのは······、多分夢で睦んだお人の子だ。
それを言ったとして、誰がそれを信じようか?
初めて産んだ殿の子を亡くして一年経った頃、菊子はある晩、自室で休んでいると、スッと部屋の戸が開くと一人の男が入って来た。
侍女や家臣はそれには気がついていない様子だった。
月明かりに照らされた男の相貌は、幼き頃に亡くした父を思わせた。
「父上?···」
菊子は思わずそう呟いていた。
「菊子」
そう自分の名を呼ぶのは、乳兄弟しかいない。だが、目の前のこの男はその乳兄弟よりも年若い姿をしていた。
戸惑っていると、なぜか亡き伯父のようにも見えて来てしまった。
この人は、一体誰なのだろう?
菊子は兄のような父のような存在にずっと憧れていた。
一度でいいから、歳の近い者に愛されて見たかった。
両親の仇、義兄の仇の天下人の老いた男に、今までずっと身を任せてきた。
菊子が15歳で30以上歳上の男の側室になったのは、自分と妹達が生き延びるためだ。殿の中には菊子を側室にしない選択肢はなく、有無を言わせぬ状況だった。
菊子は三姉妹の中では最も生母に似ていたこと、長女で年齢的に嫁ぐのには無理がなかったこともある。
菊子は再び男児を出産した。殿の喜びようは凄まじかった。
そして殿との関係が拗れた殿の甥が自害して果てると、我が子への風向きが変わった。
乳兄弟と菊子の関係が噂されたが、一笑に付した。
「遠い西方の沙漠の国では、乳兄弟は実の兄弟とみなし、結婚すら禁じられているというのに」
派閥争い権力争いはいつでもある。不仲でなくとも、そう噂され、隙あらば足を掬おうとするものだ。自分と我が子、一門の立ち位置を磐石にしたいと誰でも思うものだろう。
嫡男を産んだ菊子に正室は協力的だったが、 嫡男と認めはしても正室の恩顧の家臣達はあくまでも正室派だった。
そんな中、殿が倒れ病床に臥した。醍醐の花見の後すぐに、殿はこの世を去ってしまった。
跡取りは我が子ではあったが後ろ楯が弱い。本当に信用できるのは乳兄弟とその母親の乳母だけだ。
政治に今まで関与してこなかった菊子には補佐役が必要だった。石田三成が側近になってくれたが、それでも徳川を牽制するのは難しかった。
菊子は我が子を守ることに囚われ過ぎて、悪手を選んだ。老獪な徳川に押されてゆくにつれて精神的に追い詰められた。
不安で食事が満足に取れず、不眠となって心身ともに疲弊していった。
判断力が低下し、自分の城主としての舵取りが悪化していくことを菊子は止めることができなかった。
我が子が伯父や二人の父達のように命を落とすことが、ただただ恐怖でしかない。
正直、殿の血筋や一門が残ろうが残るまいが、もうどうでもよかった。
我が子だけ助かればそれでよかった。
既に正室派の家臣達は寝返り離れて行った。乱心に近い菊子に最後まで味方、加勢した者は皆散って行った。
落城し乳兄弟らも果てた。
「菊子、この日を待っていたぞ」
自害しようとする菊子の前に、あの夜の男が現れた。
夢なのか幻なのかわからない。甘やかに睦み子を孕んだあの時さえも。
「お前の死の時に、迎えに来る」
夢の中でそう契っていた。
「浅井と織田の血は江が継ぐ、もう怖れることはない」
涙に濡れる菊子に男がそう言った。
「父さま、母さま···」
菊子は、亡き父と母を呼んだ。
菊子は幼女のような笑みをたたえて手を延ばした。
「良いのじゃ、楽におなり」
そんな声がどこからかしたような気がした。
「はい···」
浅井菊子は握っていた短刀に力を込めた。
(了)