私はそれができない、でもそれでいい
私にはどうしてもできないことがある。
それは人と同じように家庭を持つことだ。
伴侶や子どもを欲しいと思ったこともあるけれど、きっと私は自分のやりたいことの方を優先してしまうだろう。
だから伴侶と子どもを持つのを諦めた。
諦めるということは、必ずしもネガティブとは限らない。
諦める事が最善策のこともあるからね。
私は自分の仕事が大好きだ。
仕事が生きがいで、それができていたらそれで幸せ、満足なのだ。
そんな私は変わり者、一般的ではない、人として不完全、ポンコツだと人は揶揄するけれど、別にそれでかまわない。
その他大勢の人と同じように、この仕事をしながら、結婚も出産もしてゆくのは、私には物理的に不可能だと思っているから、他者と同じように無理をするのは無謀だとわきまえているのだ。
私がまわりと同じように結婚し子を産んでしまうと、伴侶や子どもは、私のやりたいことの犠牲になるだろう。
だからそれを避けるために、結婚も出産もしないのだ。
あれもこれもと欲張って、誰かと競うことに明け暮れるなんてまっぴらだ。
私は仕事さえできればそれでいいのだから。
人にはそれぞれ選択肢がある。
何を選び何を選ばないかは、個人の自由だ。
承認欲求の奴隷みたいになると、自分の本当にやりたいことは結局疎かになる。
あれもこれもと際限無くやると、収拾はつかなくなり、何もかもが中途半端になって行く。
それでかえって自己肯定が追い付かなくなるんだ。
あの人に勝つためにとか、あいつよりも上に行かないとというこに躍起になると、人はやらなくても良いことまでやり出すものだ。
それで余計に時間もエネルギーも足りなくなるわけだ。
マウント狂いの人が、大抵みな無駄な時間とエネルギーの消耗に明け暮れているのはそのためだ。
それって自分をわかっていないってことだ。
自分で自分自身のバランスを取ることも、自身のコントロールもできていないってことだよ。
マウント狂いとは、そういう人なのだよね。
分をわきまえる、自分をわきまえるというのは、自分を矮小化することでは全く無いんだよね。
それがわからない人は、分をわきまえるとは自分を目減りさせることだとか、自分を削って傷つけることだと勘違いして、尊大な自分を他者に無理矢理にでも誇ることに必死なんだよ。
自分をコントロールできない人ほど、他者を犠牲にするものだ。
マウントは他者を犠牲にする人がするものだよね。
何もかもを誰かと同じにしないと気が済まないなんて、時間とエネルギーの無駄でしかない。
それに、自分を誰かに良く見せようとすることに必死なのは、自分を自分でわかっていないし、自分に満足していないからだよね。
アーティストタイプとかクリエータータイプ、仕事に専念したい人は家事や育児は苦手か、嫌いな人が割と多いものだ。
寝食を忘れて没頭してしまう傾向があるからね?
自分を良く見せたいとか、マウントを取りたい人は、家事や育児も完璧にこなそうと、自分の適性を無視してやってしまうから、自分で自分の首を締めて手に負えなくなるんだよね。
それで手に負えなくなると、誰かに丸投げするから伴侶や子どもに負荷を与え、伴侶や子どもなどの家族を犠牲にしてしまうんだよ。
家族以外にも犠牲を強いてしまうのは、そんな人達なわけだ。
自分の適性を冷静に見極め、できることとできないことを自分で素直に受け入れて、自分の分をわきまえられるなら、犠牲になる人を減らせるんだよね。
そんなわけで、私は結婚と出産はしないことにしたのだ。
私の犠牲になる人を作らないためにね。
私にはやりたいことがある。
でも、その事でなるべく犠牲者を出さないようにしたいんだ。
私はすべてをオールマイティーにやることはできない。
だからそれでいいんだ。
私はそれでいい。
これが最も私が自分らしく生きるために必要なことなんだ。
そこに自己卑下や自己否定は存在しない。
余計な自分上げも自分盛りもない。
ただフラットな感覚の自分がいるだけだ。
私は他の人とは同じようにはできない。でもそれでいい。それが私だからだ。
私は私の道を行く。
それだけなんだ。
(了)




