サイレントルーツ2⑤
意中の男性との関係に夢中で、実家を空けがちな母には、父の訃報を告げるのは先延ばしにした。
父と離婚した母は既に他人であり、母にはもう関係のないことだろう。
「死因は何ですか?」
「膵臓癌だよ」
叔父から両親の真の別居理由を初めて聞かされ、俺は愕然とした。
父の不倫が原因で別居したと言うのは嘘であって、不倫をしたという母の誤解から別居に至っただけだった。
そして誤解させたことを詫び、必死に修復しようとしていた父を一方的に拒絶し続けていたのは母だったということを知った。
両親や叔父、祖母らの度重なる説得にも応じなかったのだという。
自分のせいで誤解され、別居に至らせてしまったという罪悪感から、不倫相手と疑われた宮下紀香は、叔父に付き添われて子どものDNA鑑定の結果を持って謝罪と父は無実だという説明をしに来たことがあったらしい。
それで俺はその女性を子どもの頃に見たことがあったのだ。
「お父さんは、よその女のところへ行ってしまったのよ」
幼かった俺はその母の説明を鵜呑みし信じ切ってしまっていた。
自分に腹違いの弟と妹がいるというのも、母の嘘だったのだ。
父のことに触れるのを嫌がっていたから、ずっと母には聞かず仕舞いだった。
──なんてことだ。今の今まで俺はすっかり騙されて来たのだ。
母の勝手な嘘にこんなにも長い間俺は騙されていたのだ。
俺は虚無感と同時に、母を激しく憎悪した。母を罵倒したい気持ちを抑えるのに必死だった。
父を俺から遠ざけ奪ったのは自分の母だったのだ。
父には愛人など初めからいなかった。不倫の事実など、どこにもなかったんだ。
俺は父への同情を禁じ得なかった。
俺は母のことを全く信じられなくなった。
俺と父の人生を狂わせたのは、母の頑迷さだったのだ。
──母の顔などもう一生見たくない。
父さんを、父との時間を俺に返してくれ!
母を許せない。
親子の縁を切りたい。
あんな母など母とは思わない。
自分が加害者の癖に被害者ぶる女、被害者ぶりながら他者を踏みにじる、身内すら、家族さえも犠牲にするその行為が最も許し難い。
自分のこと、自分の感情や気持ち、自分の都合しか考えない女。
それは元妻の仁菜もそうだった。今更ながら怒りが込み上げた。
今後、父の宮本の姓を名乗ることを考えた。
大原は母方の姓だ。
今までは、不倫で家族を捨てた父の血を受け継いでいることを嫌悪したものだが、今は自分がこんな母の血を引き継いでいることが腹立たしくてしょうがない。
死に目にも会えなかった父の遺骨を引き取り持ち帰って来た。
父方の祖母の墓へ葬る予定でいる。母が別居してからその祖母とも疎遠になってしまった。結局母は、俺から父と祖母も奪ったのだ。
俺が死んだら父と同じ墓に入りたい。母とは同じ墓には絶対に入りたく無い。
久しぶりに実家に帰宅すると、母はかなり不機嫌だった。
意中の彼と上手くいかなくなっているらしい。
「大事な話って何よ?」
「父さんが亡くなった。もう葬儀も済んでいて、遺骨は俺が引き取った」
母は一瞬息を飲んだが、すぐに「そう」と答えた。
「······なんであなたが?あの女が引き取れば良かったじゃないの」
「母さんにとってはもう他人かもしれないけど、俺は父さんの息子だよ。それに愛人なんて最初からいないじゃないか」
「そんなの、私は信じないわよ」
「もう止めてくれよ。母さんは勝手過ぎる。俺から父さんを奪ったのは母さんだ。父さんから俺を奪ったのも母さんなんだよ!」
祖母から俺という孫を奪ったのもそうだ。
俺の語気の強さに母は狼狽えた。
「······何を言い出すの?そんなの嘘よ」
「母さんは嘘をついて俺を騙した」
「ち、違う、騙すつもりじゃなかったのよ!······私は、私はお父さんの態度にとても傷ついていたのよ」
「父さんだって、俺だって物凄く傷ついたよ。なぜ長い間和解しようとしなかったんだ?父さんは必死に修復しようとしていたのに。やり直す気が無いなら、もっと早く離婚すれば良かったのに。裁判にしないでずっと待っていた父さんに失礼だよ。母さんは自分のことしか考えていない。俺は母さんを見損なったよ」
母は泣き出した。子どもの頃から不憫だと思えていた母は、虚像だったのだ。
不憫なのは父の方だった。
「泣けば、怒って見せれば何でも自分の思い通りにできるなんて思わないでくれよ。俺は大原を出る。もう母さんとは一緒には暮らせない。母さんはそれだけのことを俺にしたんだよ」
これでも、母をもっと罵倒したい気持ちを精一杯抑えていた。
「ま、待って、お願い、謝るから」
「謝って済むことでは全く無いよ。俺と父さんの時間を返してくれ!」
「ううっ······、私だってお父さんとやり直したかったのよ。でも、どうしても素直になれなかったのよ」
「······それで、もう父さんのことはどうでも良くなったら、次の男に乗り換えるのか?自分が俺と父さんを引き離しておいて、よくそんな気になれるな?······母さんは仁菜と同じだよ」
「なっ···、あんな子と同じにしないで!私はちゃんとお父さんのことを愛していたわ」
「だったらなんで!······もう、もういいよ、今更何を言っても手遅れだ」
俺は、泣きわめく母に一瞥もくれずに家を去った。




