サイレントルーツ2④健司
大原輝之の父、健司の目線です。
父が愛人を作って母と俺を捨てたのは十歳の時だった。父は気に食わないことがあると不機嫌になって母をなじることがあったから、そんな光景をもう見なくて済むことだけは嬉しかった。
母子家庭であることで差別やいじめを受けることはなかったが、自分の家は普通の家庭ではない、普通とは違うというコンプレックスはあった。
母を少しでも助けたくて、バイトをしながら公立の商業高校を出て就職した。職場は高卒の人間が半数近くおり珍しくはなかったから、学歴に引け目を感じることはなかった。
「宮本君、今交際中の女性はいるのかい?」
「いえ、おりません」
専務から今度自分の姪を紹介すると言われ、思わず固まった。断りづらさから外堀を埋められてしまうような気がしたからだ。
交際中の女性はいなかったが、結婚するならこんな女性がいいなという、仄かな好意を寄せていた同僚がいるにはいた。三十が目前になり、そろそろ自分も結婚を考えてもいいかもしれないと思いはじめていた頃だった。
見合いの当日、専務からの紹介が終わるとすぐに二人きりにされてしまい、恋愛経験の少ない俺は戸惑った。
どうしてもビジネスライクな口調になってしまい内心焦ってしまった。
大原節子という四歳下の利発そうな女性は、気取ったところが無く、受け答えもハキハキしていて、闊達で自信に満ちた魅力的な人だった。
見合いはとんとん拍子に進み、俺は彼女と結婚した。
二年後長男が産まれ、嬉しかったがその反面緊張していた。どうやって父親役をすればいいのかわからなかったからだ。
父に愛された記憶がなかったため、本当にこれでいいのか自信が持てず手探り状態だった。
それでも妻の節子が幸せそうに微笑んでくれることが、俺の不安を打ち消してくれた。
つい妻の顔色ばかりを伺ってしまうのは、母を困らせたくない、母を悲しませたくないという子ども時代の名残かもしれない。
四国での単身赴任生活が始まった。母のために家事を手伝ってきたから、一人暮らしでも特に困らない。
義母の世話と子育てに追われる妻の手をこれ以上煩わせたくはない。
定期的に電話を入れ互いの近況を報告し合った。
二年が経った頃、部下であるシングルマザーの宮下紀香が勤務中に流産しかかった。社員はほぼ出払っており、居合わせた俺が彼女を病院に連れていった。
このことが彼女と不倫関係であると周囲に誤解を与えてしまったのだ。
彼女が俺の子を妊娠していると邪推されてしまったが、彼女の交際中の男性の子どもだ。
どんなに不倫を否定し、言葉を尽くして説明しても妻には信じてはもらえず、これでは埒が明かないと焦った挙げ句、思わぬ失言をしてしまった。
「自分は不倫ができる立場に無い」という言葉が妻を傷つけ激怒させてしまった。
失言ではあったが、本音でもあった。
上司の親族を嫁に持ち、なおかつ婿養子という立場で不倫ができるほど俺は非常識ではないし、親の不倫で苦労した人間が、不倫をするわけが無いのだ。不倫をするなんて眼中に全くなかった。
離婚には至らなかったが、どうすればこの誤解を解けるのか、和解は暗礁に乗り上げてしまった。
単身赴任は長期に渡り、別居生活が続いた。
土産を携えて帰郷しても会ってはもらえず、妻子の誕生日やクリスマスのプレゼント、結婚記念日に花を贈っても、突き返されてしまい、手紙も読まずに破棄されてしまう有り様。
宮下紀香が出産した子どものDNA鑑定書を妻の従兄弟が経営する探偵事務所に送付したが、節子からは何の音沙汰もなかった。
「部長、本当に申し訳ありませんでした」
「別居は君のせいではないから、気にすることはない」
宮下は交際相手と再婚すると職場を去った。
その後も妻からの連絡は無く、「君の好きなようにして欲しい」と判を押し送った離婚届は妻が預かっている。頑固に俺への拒絶を貫く妻をどうすることもできなかった。
妻への愛情がなかったわけではない。彼女となら良い家庭を築いて行けると信じていた。
だが彼女と拗れてしまってからは、月日が経てば経つほど、もう元には戻れないと思うようになった。
誤解を招いたことをいくら謝罪しても、彼女が折れるということはなかった。
輝之には自分と同じような立場にしてしまい申し訳なかった。
自分の息子をこの手で育てることができず、歯がゆかった。
虚しい時だけが流れ、老いた母は他界し、俺は一人になった。
連絡が途絶えていた妻から、最近になって離婚届が届き、大原の姓を宮本に戻した。
妻にどのような心境の変化が起きたのかは知るよしもないが、こちらも何とかして修復しようという意欲はとうに失せていた。
これで、専務の姪を嫁にしたコネで出世したと揶揄されることももう無いだろう。




