第三十二話 ブラックマンデー到来
ようやく最初の山場に到達出来ました
――始まりは香港からだった。
連休明けの香港市場は原油先物への不安を背景に売り注文が殺到し、主要銘柄のほとんどで値がつかない大暴落に陥った。その流れは瞬く間にヨーロッパへ波及し、さらに大西洋を越えてアメリカへと飛び火する。
1987年10月19日、ニューヨーク証券取引所。
開場と同時に売りが売りを呼び雪崩を打った。投資家たちの恐怖が恐怖を呼び、注文が一斉に市場へ殺到する。
だが当時のコンピューターと通信システムは未熟で、処理能力をはるかに超えた注文は滞り、1時間以上も約定が止まった。情報が遅れれば遅れるほどトレーダーの混乱は増幅し、売りはさらに売りを呼びこんだ。
その結果、ダウ工業株30種平均は前週末比で508ドル安。下落率22.6%。これは世界恐慌の引き金となった1929年「暗黒の木曜日」の下落率をも上回る、史上最大の暴落となった。
翌日、その余波は当然ながらアジアへ押し寄せる。
東京市場は開場直後から大混乱に陥り、日経平均株価は3,836円48銭安の21,910円08銭――過去最大の暴落を記録した。
欧州市場でも大手機関投資家の売りが殺到し、全世界同時株安。市場関係者の誰もが口を揃えて「悪夢」と言った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「……始まったな」
さすがに不謹慎なので、今日は例のゲ◯ドースタイルは封印しておく。
「そうね。大輔君から聞かされていたとはいえ、これ程とは――」
普段強気な美和子さんですら声を失っている。
ネクストのオフィスは電話が鳴り止まない。社員たちは両耳で受話器を抱え込み、顧客からの問い合わせに対応している。
「はい、こちらとしても予測はお伝えしておりましたが……ここまでとは」
「大丈夫です。資産の大半は現物に移していただいてますから。慌てずに様子を見ましょう」
「……はい、お電話ありがとうございます――って、ワン切り? ◯ね!」
現場はまさに修羅場だった。
「大輔君から『現物資産に切り替えて』って助言がなかったら、もしかしなくても今頃詰んでたんじゃないかしら」
「まあ、その可能性はあったかもね」
正直、未来知識さまさまである。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
翌20日、日本市場は大反発を見せる。下げすぎた反動で投げ売りの買い戻しが入り、一時的に安堵の空気が流れる。だがそれも束の間、全世界的な不況懸念の前には焼け石に水だった。
日経平均はその後も下げ続け、11月10日には2万1000円台にまで下落。投資家たちは再び不安に震えた。
だが、このあたりから潮目が変わり始める。
米欧が深刻な不況にあえぐ中で、日本の景気の底堅さが際立ったのだ。世界の投資家たちは次第に日本市場に資金を移しはじめ、国内の投資家たちも「反撃の時」を虎視眈々と狙っていた。
市場に再び熱が戻るのは年明け早々――。
そこから日経平均は息を吹き返し、その流れが日本を狂乱の時代へと突入させていく力となる。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
一方ネクストの社内は、この激動の数週間を死力で乗り切っていた。
パニックに飲まれず冷静に顧客を守れたのは、事前の備えと社員一人ひとりの粘り強さのおかげだ。
昼休み、ようやく訪れた静かな時間。社員たちは机に突っ伏してぐったりしていた。
「まさに……ブラックマンデーね」
真理子さんが力なく呟く。
「けど、私たちは守り切った」
美和子さんの言葉に皆の目がわずかに輝きを取り戻す。
「もちろん全員を救えたわけじゃない。でも、大半の顧客は救えたわ。事前に大輔君の警告があったお陰よ」
「僕一人の力じゃないですよ。信じて動いてくれた皆のおかげです」
窓の外には秋晴れの空が広がっていた。しかし街を歩く人々の顔には、不安と疲労がにじんでいる。世界がまだ震えている証拠だ。
それでも俺は知っている。この国はまだ倒れない。むしろ、これから待つのは狂騒の宴――。
暗黒の月曜日は、それで終わりではなかったのだ。
それはむしろ、日本経済が狂乱のバブル相場へ突き進む「序章」に過ぎなかったのだ。




