第三十一話 嵐の前の静けさ
目の前の人物を見て、俺は言葉を失った。思わず口を開けたまま固まっている俺をよそに、彼女は特に気にする様子もなく、さらりと言った。
「気を使ってくれたのね。それじゃ」
振り返ることなく颯爽と歩き去る。その背中は優雅さと力強さが同居し、まさに理想的な女性の姿だった。――うむ、なんというイケメン。これなら健太が惚れ込むのも当然だと頷けるというもの
だが未来の記憶を振り返っても、この場面に心当たりはない。確かに別クラスだったから接点は少なかったが……これはもしかして、バタフライエフェクト。少しずつ歴史の歯車が狂い始めているのか。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
さて、ネクストでの九月の大騒ぎもようやく一段落し、ついに嵐の十月へ突入した。顧客への説明に奔走する日々だったが、それでも一部には信じられなかったのか、資産を解約してしまう人もいた。
事前にアメリカの状況が不透明で危険である事を伝えたんですが……
「今の日本の好景気が崩れるなんて、誰も想像できませんよね」
そう肩をすくめると、美和子さんも苦笑いを返してきた。未来からの確定情報を持っているとは、もちろん言える訳がない。
ようやく落ち着きを取り戻した事務所では、社員たちも少しだけ余裕を見せ始めていた。お茶を飲みながら談笑していると、悠子さんが不満げに問いかけてきた。
「ねえ大輔くん、本当にアメリカで“何か”が起こると言うの?」
「僕は預言者じゃありませんからね。確実に起こるなんて断言はできませんよ」
そう言いながらも、俺はカバンから一冊の雑誌を取り出した。
「ただ、今のアメリカ経済は風船が極限まで膨らんだ状態なんです。これを見てください」
それは『週刊エメラルド』十月三日号。そこには「米経済学の巨人」と呼ばれるジョン・K・ガルブレイスのインタビューが掲載されていた。
「彼も警告してます。アメリカ経済はすでに危うい、と。等のアメリカの経済の専門家が警告を促してるんです、だから僕らは“いつか”じゃなく、“近いうち”に備えておかないといけない」
皆が真剣な表情で雑誌を回し読みし、再び空気が引き締まる。俺の言葉に全員が危機感を新たにしてくれたようだった。――そう、事態はすでに始まりつつあったのだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
――1987年10月15日。
ペルシャ湾を航行中の米タンカーが、イラン海軍の攻撃を受けてミサイルを被弾した。即座に米軍は報復に転じ、イランが保有する石油プラットフォーム二基を爆撃。そのニュースは世界を駆け巡り、市場には原油供給への不安が一気に広がった。
緊張は臨界点を迎え、ついに時が満ちる。
――そして、1987年10月19日。
世界は、暗黒の月曜日を迎えた。