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5-2 罪と罰



「ぜェ……は……ッ、はぁ……くそ……っ!」


 数センチ先すらも目視出来ないような真っ暗闇の中、荒れた呼吸音と足を引き摺る音だけが響く。


 マチイヌマチの地下に広がった獣人街、犬塚よりも数キロ離れたチカテツ、レールの上をオルトは足を引きずりながら歩いていた。


 誰のものかも分からない鮮血が、ボタボタと足元を濡らして道を作っていく。しかしながらこの常世の中では今し方地面に落ちていった血の道すらも確認する事が出来ない。


「お願いです、お願いですから……!」


 ぶつぶつと譫言のように繰り返しながら見えない道を進んでいく。


 彼の右足はあらぬ方向に曲がり、全身には無数の裂傷が走っている。肉の抉れた左腕を無理やり持ち上げながら、朦朧とする意識の中でオルトは走る。

 今直ぐに治療を受けなければその命が危ぶまれるのは、誰の目にも明らかなものだった。


 しかし……。


「お願いですから、死なないでくださいよ……チロルさん……ッ」


 だがそれ以上にオルトの腕の中にいるチロルの方が重体だった。


 一体どれだけの暴力の下に晒されれば、人間がこんな姿になるのだろうか。オルトの腕の中にいるチロルはまるで、大きな肉の塊のようだ。


 四肢は少しずつ肉が削ぎ落とされ、もうまともな機能は望めない。右目の眼球はくり抜かれぽっかりと空洞が開き、その穴からダラダラと血が流れている。喉も潰され、抜かれた歯の隙間から呻き声は上がっているものの、意識は途切れ途切れ、辛うじて細い糸が何とか保たれてるに過ぎない。


 生きてはいる。死んじゃいない。だがそれだけの状態だ。放っておいてもそうでなくても、数刻もすれば彼女は確実に命を落とすだろう。


「どうして、どうしてこんな事に……」


 地上と移動していれば、ヒト混みの中で自分が手を離さなかったら。タラレバを並べて後悔に押し潰されそうになる。


 こんな筈じゃ無かった。こんな事になるなんて夢にも思っていなかった。


「守ってって、言われてたのに……!」


 徐々に腕の中で弱くなっていく呼吸と拍動。オルトのヒト並外れた聴覚は、今まさに消えようとしている彼女の命の灯火をハッキリと感じ取っていた。

 真っ暗闇の中、瞼を開いていてもあの時に見た凄惨な光景が直ぐに浮かんでくる。


(オレのせいだ、オレのせいでチロルさんが……!)





 チロルが何者かに連れ去られたと分かると、彼は直ぐにその後を追った。しかし獣人街に充満した異臭のせいで直ぐに彼女らの臭いを追う事が出来なかった。


「チロルさん、チロルさん何処ですか!? チロルさん! 返事をしてくれ!」


 それでも足を使ってチロルを探して回ったオルトだったものの、居場所に気が付いたのは地下を揺らすような痛々しい悲鳴が轟いてからの事。


「まさか、そんな……今の声……‼︎」

「ちょ、オル坊!」


 持っていた荷物を投げ出し、案内役のニーシャの存在も忘れてオルトは地面を蹴った。

 自分の出せる最高速度で彼女の元へと駆けつける。その間にも彼の心臓はこれまでに無い程の早鐘を打ち続けた。


 どうかどうか、彼女の身に不幸が降り掛かっていませんようにと繰り返し願った。


 だが遅かった。


 オルトが慌ててその場に辿り着いた時、チロルは肩と太腿にナイフを突き立てられ壁に磔にされていた。


 思い出しただけでも吐き気をもよおす。吐瀉物と排泄物を、それ以上にキツイ鉄の匂いに辺りは包み込まれていた。


 あれはきっと地獄だ。

 地獄の景色があれ以上に悲惨な筈がない。


「チロルさん……?」


 壁に引っ付けられたそれが愛しい少女だなんて、最初分からなかった。咽せ返るような彼女の匂いだけが、禍々しい現実をオルトに突きつける。


 石鹸と汗と、古本の匂い。シルクスで生きてきたチロルの匂い。それらを全て塗り潰す程の赤い臭いがオルトの鼻腔を刺激した。


「あ、あぁ……」


 チロルは獣人達の手によって喉を潰され、瞳を抉り取られ、ゆっくりと四肢の肉を生きながらに切り落とされている最中だった。真っ赤に染まった壁。激痛に唸いても、声帯が潰されているため発せられるのは空気が抜けるようなくぐもった声のみ。


「なんで、そんな……!」


 そんな変わり果てたチロルを目の前にして、最初にオルトが思い出したのは彼女の鈴が転がるような歌声だった。


 モネットを演じて舞台の上で堂々と歌う彼女の姿が網膜の奥で浮かび上がる。

 美しかった。愛らしかった。


 長年我慢し続けた夢を叶えて舞台で歌う彼女の姿が愛おしくてたまらなかった。


 シルクスの理念を考えれば二度目は無いと分かっていても、またあの輝きを見たいと願っていた。今度は舞台袖からじゃなくて、彼女のもっとすぐ側で。


 しかし今の彼女が生きてここを出たとしても、もう二度と歌う事は出来なかろう。あの細い喉が繊細なメロディを奏でる事は無い。


 サーカス団の裏方として、公演のためにキビキビと働く姿を見ることさえ、もう叶わない。だって手足が潰されてしまっているのだから。


「ああ、あぁあぁぁ……ッ!」


 彼女が何をしたんだ。自分達をゴミのように扱う連中と、彼女だけは一緒にしてくれるな。


 誰よりも自分達を愛して、自分達の不遇な境遇に心を痛めてくれる。そんな優しい少女を、憎むべき支配者等と混同してくれるな。


「――チロルッ!!」


 オルトが吠えた。

 そこからの事は彼自身良く覚えていない。


 ただ無我夢中で彼女を取り返そうと暴れ散らかした事だけは分かっていた。


 その結果、その場にいた獣人達と互いの体に爪を立て合う事になったのは明白。


 気が付いた時には自分自身も大きな傷を負い、命からがら瀕死のチロルを連れてレールの上を走って逃げていた。


 どれくらいの間、こうやって走っているのかもハッキリとは覚えていない。気付けばここにいた。戻る事も出来ず、前にだけ進んでいく。


 犬塚からの距離も、自分が今向かっている場所が何処なのかも。後どれくらいでその場所に到着するのかも何も分かっていない。

 一つ確かな事があるとするならば、腕の中のチロルの呼吸がどんどん弱まっている事と、自分自身もまた棺桶に片足を突っ込んでいるだろう事だけだった。


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