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4-7 スミレとカレン


 これだけの年月が経っていようとも見紛う筈がない。だってそのヒトは、チロルにとっての夢の始まりなのだから。


 彼女が歌うその姿に魅入られて、チロルはいつか舞台に立つと言う夢を抱いた。その夢をひょんな事から叶えられたその矢先、まさか彼女と会う事になるなんて。


 これはなんの因果なのだろう。


「なんで……」


 そこに立っていたのは、かつて娼館の歌姫を勤めていたヒトだった。


「あら御免なさい。何処かであった事あるかしら……?」


 声を掛けたチロルに「何処でその名前を?」とスミレが首を傾げる。どうやら彼女はチロルが誰なのか分かっていない様子。当時のチロルは迷子になって鼻を垂らしているような子どもだったのだから無理もない。


「……十年程前に迷子になっていた所を貴方に助けてもらいました。お店に連れてってもらって、それから歌を聞かせてもらって……」


 チロルが説明をしても最初は何の事か分からなかった様子。だがその表情の変化から、彼女が記憶の糸を手繰り寄せていく様が手に取るように分かった。


「あら、あらあらあら。あの時の? やだ……そうよね。十年も経つんだもの。あの時の小さい子がこんなに大きくなるわよね。あらァ……私も歳を取る訳だわ」


 そう言って彼女は楽しげに笑っていた。


 状況を理解出来ないオルトの困惑を視界の端に感じながらも、チロルはスミレ――ではなく、カレンに「何しに来たんですか」と鋭い視線を向ける。


「何って……手を離れてしまったウチの子がサーカス団に入っているって聞いたものだから。元気にしているのかと思って会いに来ただけよ?」

「元気にしてるかって……ッ!」


 勝手に飼って勝手に手放しておいて。それでのうのうと様子を見にきたとでも言うのか。カレンの言葉にチロルの中に沸々と怒りが湧き上がる。


 確かにチロルが幼い頃に憧れた歌姫は花売りの女だった。貴族に見初められて愛人としての地位に就いている事自体は何らおかしな話では無い。


 だがかつての夢の始まりが、よりによって獣人を愛玩奴隷として飼う下賎な趣味の持ち主だったなんて、考えたくもない。

 しかもよりによって、オルトの元飼い主だったなんて。


 オルトの話を聞く限り、彼女は自身が飼う獣人にまるで恋ビトのような振る舞いを求めていたと言うではないか。


(つまりオルトはこのヒト相手に……)


 そう思うと腹の奥の方でカッと何か熱いものが弾けたような感覚を覚えた。

 どうしてだろうか。泣いて喚いて、この場でみっともなく暴れ出したい気持ちが沸々と湧き上がってくるのだ。


「それにしてもここ、ちびちゃんまでいたのね。凄い偶然。良かったら……」

「帰ってください!」


 声を張り上げたのはオルトではなく、チロルの方だった。彼女は下を向いたまま両手の拳を固く握り込み、顔を真っ赤にして叫んだ。帽子と髪で隠れてはいるものの、耳もきっとトマトみたいに赤く染まっている事だろう。


「良いから、帰れよ! 許さないからな……ッ」


 今にもカレンに掴み掛かりそうな勢いのチロルを、オルトが咄嗟に抑え込む。彼の表情からはどうしてチロルがそんなに激怒しているのか、その理由が分からずに困惑する心中が見て取れた。


「チロルさん……ッ!」

「これ以上コイツに手を出したら……ここの皆んなに少しでも手を出したら、許さないからな‼︎」


 肩で息をしながらカレンを睨み付けているその様子は、まるで大切な物を取られまいと必死になって威嚇をする小さなケモノのようだった。


 周囲の人間は貴族の愛人であるカレンがチロルの言動に怒り出しやしないかとヒヤヒヤしながら事の顛末を見守っていた。だが予想に反してカレンはふっと小さく微笑むだけ。まるで小さな子どもの駄々を前に仕方がないなと、呆れながらも自愛を持って見つめているようだった。


「懐かしい子に会えて嬉しかったけれど、今日は虫の居所がよろしくないみたいね」


 今日はお暇するわと、彼女はそのまま踵を返して出口の外に向かっていってしまった。


 スタッフの誰かがそんな彼女に「またのご来場をお待ちしております!」と形式上の声を掛けたけれど、チロルは心の中で「塩でも撒いておけ」と悪態をつく。


 視界から彼女の姿が消えても、その場には甘い残り香が漂っていた。花にベッタリとつく果実のような芳香が、チロルの表情をみるみるうちに曇らせていく。


「……チロルさん、大丈夫ですか?」


 眉間のシワが深くなる一方だったものの、当のオルトの声掛けに彼女はハッと我に返った。彼の言葉でチロルはようやく落ち着きを取り戻す。


「オルト……」


 呆けた彼女の声音に誰かがホッと胸を撫で下ろした。

 暴れるチロルを抑え付けようとするあまり、いつの間にか脇に腕を通して羽交い締めにされていた。二人の身長差も相まって地面に足が着いておらず、プランと持ち上げられている。まるで母猫に運ばれる子猫のようだ。


「……下ろせ」

「ウィッス」


 すとんと地面に下ろされたチロルは、バツが悪そうに視線を明後日の方向に向かわせる。

 感情的になると言動を制御出来なくなるのは自分の悪い癖だ。オルトが役者の誘いを蹴ったと聞かされ激昂してしまった時にあれだけ反省したと言うのに。舌の根も乾かぬうちの自身の醜態に気恥しさが込み上げてくる。


 だがその一方で不安そうにこちらを見ているオルトの姿を見ると安堵感に包まれる。

 カレンに対して牙を向けていたオルトは、正直少し怖かった。


「あのヒトと知り合いだったんですか?」


 オルトからの問い掛けにチロルは言葉を探す。お前の元飼い主に憧れて歌い始めたなんてとても話したくはなかったけれど、上手くこの場を濁す方便も見付からない。


「……前に話した事あっただろ。ボクが歌うきっかけになったヒト」

「迷子になった時に助けてくれたって言う、娼館の?」

「まさか貴族の愛人になってるなんてな。元々あの場限りの関係だったから、あのヒトについて深く知ってる訳でも何でも無いけどな」


 十年もあればヒトが変わるには十分で。何より彼女が元々どういう思想の持ち主だったのかも、人間であるチロルには分からない。それでもチロルが憧れたスミレと、オルトの元飼い主のカレンが同一人物であるのは、覆りようのない事実だった。


「……」

「……」


 二人の間にどことなく気まずい空気が流れたのだが、そこにコツコツと聞き覚えのある足音が近付いてくる。


「やば……」


 その音に気が付いたチロルは、錆びついたブリキの人形のような緩慢な動作で首を後方へと向ける。徐々に近付いてくる足音は、まるで死刑執行の知らせだ。


「チロル、話は聞いた」


 聞こえてきた父の声にチロルは小さく呻き声を漏らす。


「んー……」


 南無三。

 運良くカレンが素直に引き下がってくれたから良かったものの、貴族の関係者にこれでもかと罵詈雑言を浴びせた事実は変わらない。一歩間違っていたら、一座を危険に晒しかねない行為だったのは誰の目にも明らかだ。


 当然、座長であるギムは先程のチロルのカレンへの言動に、大層ご立腹の様子だった。


「今から私の部屋に来なさい」


 とてもではないがここでノーと言えるだけの神経の太さは持ち合わせていない。

 天井を仰ぐと、チロルは「すー……」と息を吐き出した。


「これ、スタッフの誰かに渡しておいてくれ」


 自分の持っていた記録用のバインダーをオルトに託すと、チロルは大人しくギムの後ろを着いていく。

 そんな彼女の哀愁漂う背中に、オルトはひっそり手を合わせるのだった。


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