4-5 彼のみぞ知る
「何をそんなに難しい顔をしているんだい?」
チロルがベシアと出会っていたその頃、一方シルクスではと言うと。
黙々と設営を行なっていくメンバー達を自身のトレーラーの窓から眺めていたギムに、眼鏡を掛けた小柄な獣人が背後から声を掛けていた。
彼の名はルニアン。シルクスの専属医である、ネズミのような顔立ちに太くて短い尻尾の生えた男性だ。
「もうここを立ち上げて十年になるな」
窓の外のメンバー達に視線を向けたまま、ギムがぽそりと呟いた。彼の小さな声を聞き漏らすまいと、ルニアンの体に対して大き過ぎる耳がピクピクと動く。
「いやぁ、長いようで短かった十年ですな。そりゃあ僕らも年を取る訳だし、最近体の白髪が増える訳だ。おっと、君の場合は白髪は生えんね」
「そもそも毛がないからな」
普段は巣穴に隠れたネズミの如く、ご自慢の医務室からなかなか出てこないルニアン。そのせいで彼がギムの古い馴染みだと知らない団員も大勢いる事だろう。
「……してギムさんよ。何をそんなに難しい顔をしているのかね?」
ルニアンからの質問にギムは応えようとせず、口を噤んだま窓外に視線を注いでいた。そんなギムの様子にルニアンは小さく息を漏らすと、一方的に会話を続ける。
「僕たちは旧知の中だからね。キミが言わんとしている事は概ね想像がついているよ」
そう言って彼が取り出してみせたのは数日前にチロル達の間でも話題になっていた、シルクスの公演について書かれた地方雑誌だった。
「僕、キミはこういう取材みたいなものは全部遮断してるもんだと思ってたんだけど」
「当たり前だろう」
苛立たしげに答えるギムを前に、ルニアンは「だよね☆」とおどけた調子で親指を立てた。
だがそんな彼も直ぐに真面目な表情を作ると、通常よりも足が高く作られているギムのデスクにひょいと腰掛け、足を組む。
「少々まずいものが載ってしまったね」
雑誌の誌面を見下ろしながらルニアンが呟くと、ギムはようやく、小さな声で「ああ」と同意を示した。
「どうするんだい、これ」
「どうしたものかな」
「……戦う事しか能のないようなキミが突然子どもを二人も連れてきた時だって十分驚かされたけどさ。まさかサーカス団を立ち上げるなんて言われた時は天変地異を疑ったものだよ」
「そうか」
「そうだよ。あの手の娯楽に、欠片も興味なんてなかったクセに」
ギムは何も言い返さずにルニアンの話を黙って聞いていた。旧知の仲である彼からの指摘はご最もで、ギム自身、自分がサーカス団の団長になる日が来るなんて思ってもみなかった。
娯楽なんていらなかった。
この世界に自身の存在を示そうと躍起になっていたあの頃の自分を青臭いと嗤うつもりは無い。
だが爪や牙を汚す事よりももっと尊いものがこの世にあると知ってしまったのだ。
「それにしてもあの子の存在が世間に……いや、連中に知られるとなると……」
「まだ向こう側にどれだけ情報が漏れているのかは分からない」
ルニアンの言葉では無く、自身の中にある嫌な想像を否定するようにギムは言った。
「だけど遅かれ早かれ見つかってしまう可能性がある。それを懸念しているから、キミはさっきからそんな仏頂面をしてるんだろ?」
「……」
「ははは。チロル程じゃないにしろ、僕だってキミとの付き合いは長いんだ。それくらいの表情の変化は読めますとも」
笑ってはいるものの、ルニアンの表情も固かった。
「ここは方舟だ。キミの理想を守る為の」
そうだ。シルクスは温かくて優しい方舟。
ここには大切なものが詰まっている。
ギムが守らなくてはならない沢山の光を乗せているのだ。
「……オルトを呼んで来てくれないか?」
「おやおや。これについて話でもするのかい?」
そう言ってルニアンは細い指先で雑誌を弾く。
「いや、他の事で話がある」
「……そうかい。それなら、僕は席を外しておこう。僕はただの雇われ医者だからね」
そう言うと彼は手をひらひらさせながら部屋を後にしていってしまった。
残されたギムは新米団員の背筋が凍りそうな程深い溜息を漏らしながら、眉間のシワに手を寄せる。
この方舟が期限付きのもので、いつか沈没するかもしれない危険性を孕んでいた事は、ここを作った時から分かり切っていた。分かっている筈なのだが、不安が尽きない。
どうかどうか自分達の平和な旅路が長く続くようにと願ってやまなかった。ここで暮らす彼らの笑顔が崩されるような事はあってはならないのだ。
「失礼します。座長、ルニアンさんに呼ばれて来たんですが……」
暫くすると呼び付けていた相手が部屋を訪ねてきた。先程まで昼前の日差しの下で作業をしていたからなのだろう。衣服に泥を付けてこちらに視線を向けてくるオルト。
随分、表情が明るくなったものだ。奴隷商人からチロルを逃がそうとした結果、麻酔を複数本打たれた彼がギムの知る最初のオルトだった。目も当てられない暴力に晒され、意識を朦朧とさせながら床に伏した様が随分昔のものように思える。
奴隷としてその人生を絶たれた筈のオルトが、こうしてごくごく普通の青年のように笑っていられる。彼はまさにこの箱庭の成果と呼べるだろう。
彼がチロル達と共にただ笑って舞台に向かい合うだけの時間を自分は守れるのだろうか。その時が来てしまった向こう側で、この日常は守られるのだろうか。
「ルニアンは?」
ギムが尋ねるとオルトは扉の向こうにチラリと視線を向けながら「医務室に戻るそうです」と応える。
「そうか」
入団して間もない青年は自分がどうしてここに呼ばれたのか分からない様子。ソワソワと落ち着かなさそうに尻尾を揺らしながらギムの言葉を待っていた。
「オルト、キミに一つ頼みがあるんだ」
「頼み、ですか?」
もしかしたらこの言葉がいつか彼の鎖になってしまうかもしれない。その可能性を考え無かった訳でもないけれどギムは未来を信じたかった。
直ぐにでは無いかもしれない。いつかの未来に小さな光を灯せるように。
これがいつか彼らにとっての救いになりますように。
そう願いを込めながら、ギムはオルトにある話を始めた。




