3-29 新たな旅へ
あれがきっと僕の初恋だったのだ。
イルサはけして貧しくも裕福もない、何処にでもいるようなごくごく普通の家庭で生まれ育った。恐らくはこの日ノ斗亜で最も人口の多い一般的な家庭のノルマレ種。特筆する様なことも無い、有り触れた幸福の中で生きていた。
優しい両親と優しい姉に惜しげも無い愛情を注がれてすくすく育ったイルサは、同世代の子ども達と比較をすると少々……否、かなり丸っこい体型をしていた。
末っ子で丸いイルサは近所で暮らす少年達から格好の的にされていた。要するにいじめられっ子だったのだ。
顔を合わせればいつも体型を揶揄われていて、泣かされていて。泣き虫イルサと馬鹿にされればまた泣いた。
その日もいつものようにいじめられっ子達に追い回され、彼は泣きながら逃げていた。
そんな時、たまたま家族の巡業についてマチにやって来ていた少女と運命的な出会いを果たした。あの日の事を忘れた事など一日だって無い。
忘れられるものか。
サラリと揺れる色素の薄い髪。少しだけつり上がったアーモンド型の瞳は、光を浴びて複数の色を帯びながら宝石のように輝いていた。
少年の幼心を奪うには十二分過ぎる見目をした少女は、イルサと彼を追い回すいじめっ子達を一瞥するとひと言。
「何ダサいことしてんの?」
と、冷ややかな声で言い放ったのだ。
温かな家庭で育ったイルサはいじめっ子達の嘲笑こそ知っていても、まるで汚物でも見下ろすような冷徹な視線を向けられた経験も無い。忘れられるものか、ヒトはヒトをあそこまで蔑む事が出来るのかと、イルサはその日身をもって知らされる事となった。
「ほら見ろ、泣き虫イルサはだっせぇなぁ」
「ソイツがダサいのは否定しないけど、お前らだって十分ダサいよ。なんでそんな生産性の無い事して喜んでられんの? 暇なの?」
見知らぬ少女に冷ややかな視線を向けられるイルサの事をいじめっ子達は指さして笑った。だがそんな彼等にも少女の絶対零度の瞳が向けられる。
彼女にとってはいじめられてピーピー泣いているイルサも、それをオモチャにして追い回すいじめっ子達もまとめて「ダサいことしてる奴ら」だったのだろう。
「生産性の無い行為が悪いとは言わないけどさ、ヒトをヒトと思わない行為は心底ダサいよ」
「なんなんだよ、このクソ女!」
当然彼女の言葉にいじめっ子達は激昂して、線の細い彼女に殴りかかっていった。
しかしながら全員、物の見事に返り討ちにされていた。細い腕でいじめっ子たちをちぎっては投げちぎっては投げ。その光景は圧巻だった。
「アンタもさ、やり返せとは言わないけど逃げてばかりは違うでしょ。牙とかない訳?」
「牙って……そんな、獣人じゃあるまいし」
「人間にだって牙くらいあるでしょ」
「……君は何者なの?」
「ボクはチロル。ビスティアサーカス団シルクスの裏方」
初めは獣人と生活をしていると言う彼女の話に度肝を抜かれ、体の底から震え上がってしまったイルサだったものの、チロルの話を聞いているうちにそんな事はどうでも良くなってしまった。
「いつかこの歌で、ボクがギムの夢を叶えるんだ。ボク達のショーを見に来てくれたヒト達が、ほんの少しだけ前を向ける力をこの世界に振り撒いてやるんだ」
夢を語るその目が宝石のようにキラキラしていて思わず目を奪われた。
チロルがマチに滞在している間、サーカス団の劇場から漏れ出す音に合わせて一緒に演劇の真似事をして遊んだりした。重たい体を動かすのは億劫だと思っていたけれど、楽しげに笑う彼女の隣にいる時はそんな事どうでも良かった。
歌うチロルはとても綺麗で、たまに見せる笑顔が愛らしかった。
しかしながら旅一座に所属するチロルは公演が終わると共にマチを出ていってしまった。
「縁があったらまた会えるんじゃない?」
最後に残していったチロルの言葉を忘れる事も出来ず、胸の中に芽生えた新芽を握り潰すなんて以ての外だった。
自分もスターになれば彼女に見つけてもらえるかもしれない。
そんな淡い期待を抱き、家族の反対を押し切る形でイルサはエトワールの門戸を叩いたのだ。
丸々としていた体を絞って、兎に角連中を重ねてエトワールのトップスターまで上り詰めた。
言葉の通り縁がありチロルと再会を果たす事は叶ったものの、彼女の目がイルサ方を向く事はなかった。
あの歌を聴いて、今更彼女を勧誘しようなんて思わない。
チロルこ生きる場所は、今も昔も変わらずあの獣人サーカスで……そこで生きているからこそ彼女はあんなに美しいのだろう。
「はー……これは、失恋と言って良いのだろうか」
胸の痛みは少々重すぎる。酒でも飲んで忘れてしまいたい気分だが……。
最後に交わした会話。その中で見せた無邪気な彼女の笑顔を簡単に忘れたくはないから、酒はまたの機会に取っておこう。
「帰って稽古でもするか」
エトワールへの勧誘は出来なかったけれど、彼女は舞台が大好きだから。
飛び切りのスターでいさえすれば、もしかして、もしかするかもしれない。
そんな淡い希望はまだ消えていない。そう自分に言い聞かせながら、イルサは自分の帰る場所へと戻っていくのだった。
◯◯◯
その翌日。
出立の準備を済ませたシルクス一行は、長らく滞在をしていたタカウマノマチを後にする。
「なんか随分長い事滞在してた気がするな」
「色々濃密でしたもんね、このマチでの事は」
ヒトと機材を積んだトレーラーがずらずらと、マチの外に向けて進み始めていた。
「次の目的地ってどうやって決めてるんですか?」
「公演期間中、ギムが何人か連れていなくなる時があるだろ。あん時に目星をつけてる近隣のマチに滞在の許可取りに行ってるんだって。たまにマチの方から依頼があって向かう事もあるみたいだけど」
「座長って大変なんですね」
現在二人は衣裳部屋用のトレーラーの中で過ごしている。移動中は特に出来る事がないため、移動に必要な人員以外は基本的にこうして室内で休息を取っていた。
怒涛の千秋楽を超えて、またいつもの日常が戻ってくる。
舞台に上がったのはつい二日前の事なのに、チロルにはもうとても昔の事のように感じられた。
「次の公演のキャスト練始まってるんだろ? 今度はいつも通りの内容に戻すのか?」
「それなんですが、バニラさんがあの路線でやる気を出してしまっていて。元に戻すべきだって座長とバチバチにやり合ってますよ」
「役者も大変だな。お前としてはどっちやりたいの?」
「文字読むのも得意じゃないんで。台詞が少ない方が助かります」
「ははは、バニラの前で言ったら絶対に課題図書出されるからやめておけよ」
「そんなことされたら倒れちゃいますって、オレ!」
窓の外に視線を向けると昨日までいたタカウマノマチがどんどん遠ざかっていく。
あのマチの名前を、自分は数十年経ったってふとした時に思い出すんだろう。
チロルの細い毛先で風が戯れる。
何となく気分が良かった。理由なんてそれだけだ。
すぅっと小さく息を吸い込んだその後で、チロルの薄い唇がメロディを奏で始める。
ガタゴトとトレーラーの揺れに混ざりながら聞こえてくる歌声に、オルトはじっと耳を傾けた。
――揺れる髪靡かせ 旅立つは懐かしき香り
――浮橋に辿り着けど まだ光は遠く
――夢路を歩む 踏み付ける足の裏に刺さる棘
――密やかな秘め事 少女にひと匙のスパイスを
――描く情景 いつしか降り立つ光の袂
少女の名前はチロル。
ビスティアサーカス団・シルクスの団員にして、役職は【裏方】
新たなる旅路で訪れる幸福を願いながら、今日も彼女は客前ではなく、愛しい家族達の前で優しい歌を歌うのだ。
第三部 【辺境のモネット】
第一幕 サーカス団の裏方 了




