3-17 背水の陣
「パフォーマンスは一部変更だ。フランの強みじゃなくてお前の強みが活かせる形に変えるぞ」
「衣裳はどうする? フランの衣装、ボクじゃ着られない。この前のイブニングドレスみたいに詰めるにしてもボクがそんな事やってる暇は無い」
「『モネット』は基本的に華美な衣裳は使われてない。お前の私服でそれらしいもん掻き集めれば何とかなるだろ」
「モネットって『夢想人』だけど身体的特徴はどうする?」
「大昔に使った羽根の模型でも背中に取り付けておけ」
「そうなるとセリフの一部を変えなくちゃならないな……ああ、でも変更されるのはどうせシオンとモネットの会話だけなのか。じゃあ良いか」
「ああ任せろ。何かあっても全力でサポートしてやる。アドリブでも何でもやりたいようにかませ!」
「そんな対応力、素人のボクにある訳ないじゃん。ああもう、ゲネ終わってからやる事じゃ無いんだよな。しかも最終日に!」
状況は決して良いとは言えない。むしろ最悪だ。想定外のアクシデント一つに対応するために多少のアドリブが入る事はあっても、当日の朝に役者が丸々変わるなんて本来ならばあり得ない。
あり得ない危機的状況。その筈なのにチロルは楽しくて仕方がなかった。
それは隣を走るバニラも同じなのだろう。興奮と高揚に瞳孔が開いているのが分かった。
正直、胸の昂りはあるもののまだ実感は湧いていない。幼い頃からずっとずっと夢にっ見てきた場所に向かう片道切符を今更突然手渡されて、実感なんて湧いて来る筈もない。
「ふぅ……」
「……チロル?」
急がなければならないこの状況で不意に足を止めたチロルの方へ、バニラは心配そうに視線を向ける。
「ふんっ!」
ばッちィん!
立ち止まったチロルが自分の頬を左右から思いっきり叩き付けた。
「……よし」
今までがどうだったとか、これからがどうだとか考えるのは全部幕が下りてから。
タイムリミットは刻々と迫っていて、チロルの気持ちを置いてけぼりにしようとも絶対に幕は開く。否、自分達はプロなのだから開けなくてはならないのだ。
舞台はただの娯楽だ。
腹が膨れる訳でもなければ、世界を変えるような力もない。
だがそんな舞台のために金を払って足を運んでくれた観客が一人でもいるのなら、そのヒトの心に何かを残さなくてはならないのだ。
両頬に紅葉を作ったチロルは、また何も言わずに走り出す。そんな妹の姿を見て、兄はその背中を軽く叩き、激励を送るのだった。
それから開幕までの時間、チロル達は動き続けた。
通しで稽古をする回数なんて大して取れない。圧倒的に時間が足りない中、チロルに舞台に立つためのノウハウを叩き込んだ。
いくらチロルが長年一座に籍を置き、舞台を愛していようとも彼女には圧倒的に経験値が無い。舞台のひと柱を担うフランのような立ち回りが出来る筈がないため、舞台全体で彼女をサポートするように動かなくてはならない。
台本を読みながらスタッフ仲間が握ってくれた握り飯をお茶で喉に流し込み、トイレに行く間も発声を行った。動いて動いて、それでも時間は足りなくて時計の針が進んでいく。
そして……。
「お、良いじゃん。別嬪さん」
「まさかこのメイク、自分に施す日が来るとはね……」
楽屋の鏡の前にチロルは立っていた。
遠くから見ても表情がはっきりと見えるように、舞台に上がるキャストはこれでもかと言う程に派手で華美な化粧をしなくてはならない。
舞台メイクを施した自分の顔には、違和感しかなかった。
「オレも最初化粧しろって言われた時にはびっくりしました。毛があるのにどうやってやるんだって。そもそもオレの顔、真っ黒だし」
「獣人って化粧しなくてもある程度顔立ちはっきりしてるから、どこまで必要なのかは分かんないけどな。……ボクはノルマレだから必須だけどさ」
そんな下らないやり取りが多少なりとも心にゆとりを与えてくれる。
もう開場して客が入り始めている頃だろう。
正直まだ実感が湧かない。この数十分後に自分は本当に客の前に立っているのだろうか。
「お前、良く普通に舞台に上がれてるな。ずっとこの日を待ち望んでた筈なのに、ボクなんて緊張で手が震えてるよ」
隣で支度をするオルトの余裕のある表情を見て、チロルは溜息をついた。だがそんなチロルにオルトはあっけらかんと。
「オレだって緊張しっぱなしですよ。ちょい役でしかないのに」
と笑って見せた。とてもそんな風には見えないとチロルが指摘すると、彼はチロルの手を握ってみせる。
「ほら」
言われた通り、彼の手は自分と同じように小刻みに震えていた。それに気が付くと何だか笑えてしまう。
なんだ、怖いのは自分だけじゃないんだ。
「チロル、オルト。そろそろ移動だ」
「はいっ!」
「大丈夫だチロル、大船に乗ったつもりで好きなだけ暴れて来い。どうせ中止になる筈だった舞台だ、今はシルクスの事とか何も考えなくて良い。今夜は……お前のためのステージだ」
「……うん!」
手の震えは止まらない。早鐘を打つ心臓は大人しくしてくれない。それでも覚悟を決めて、チロルは人生最初で最後の大一番に向かうのだった。




