3-7 突然の勧誘
「凄かったっすね、舞台……」
「……っ、そうだな」
鼻を啜りながらチロルは何とか返事をする。
チロルが座席から立ち上がる事が出来たのは、観客の殆どが出口に向かい、場内の確認をしに来たスタッフに声を掛けられてからがやっとだった。
「正直あのイルサって野郎、単純にムカつく奴かと思ってましたけど……演技凄かったッスね。主演の女優も……」
「……」
確かにエトワールの舞台は凄かった。それはもう今迄に無いくらい心を揺り動かされたし、こうやって泣かされもした。
だが歴史もノウハウも浅く、獣人としての個々の身体能力頼りなシルクスのサーカスが、全ての面で劣っているとは思えなかった。
まざまざと実力差を見せつけられたのは事実で自劇団の足りない所は星の数程見えてきたけれど、それでもシルクスの舞台が霞むような話では無い。
(ただ……これは厳しいかもな)
とある懸念がチロルの胸を過ぎった。
「感動してくれたようだね。最もケモノごときにあの舞台の真髄が理解出来るとは思えないけれどね」
「……ッ!!」
背後から聞こえてきたその声に二人はゲッと顔を引き攣らせた。
ウィッグを被りサングラスを付け変装をしたイルサが、こちらに向かって歩いてくる。辺りはすっかり暗くなっているのにサングラスなんかしてきちんと視界の確保は出来ているのだろうか。
「……何だその珍妙な格好は」
「一応今作のヒーロー役だからね。ファンが押し寄せてこないよう、お忍びで出てくる必要があるのさ」
嫌味かとツッコミを入れたくなるものの、確かに舞台上映後、帰宅する観客達の波の中にイルサが現れたとなればこの場はパニックになりかねないだろう。言っている事が何も間違っていない点にも無性に腹が立った。
「どうだい、うちの舞台は」
「……凄かったよ。それは認める」
「分かってくれて嬉しいよチロル」
また。まただ。どうしてこの男は自分の名前を知っている。
「君を縛り付けておく馬鹿な獣人共から離れる理由は、あの舞台を見れば十分だろう」
「……昼間から思っていたんだが、ボクの家族への侮蔑は控えてもらえないか。不愉快だ」
「いいやするね。連中は揃いも揃って馬鹿ばかりだ!君程の才能を……あの歌声を表に出さず、ひた隠しにしておくなんて馬鹿のする事だろう」
「歌声って……!」
舞台に立てない事が確定したあの日からヒト前で歌を披露した事なんてない。それこそチロルのうたを知っているのは、偶然その場に居合わせたオルトくらいの筈なのに。どうしてイルサがそれを知っているのだ。
「チロル、君の才能はきちんと舞台の上で輝くべきだ」
そう言うと彼はチロルの両手をぎゅっと強く握った。
その瞬間にオルトが「なッ」と声を上げたけれど、チロルはこちらをじっと見つめてくる大きなイルサの目から顔を背ける事が出来なかった。
「エトワールに移籍しないか」
「何を言って……」
「君の実力があればここでだって十分戦っていける。ケモノ臭いテントで才能の原石を眠らせておく事は無い」
「……ズブの素人がいきなり舞台に立てる程、エトワールはヒト手不足なのか?」
イルサがチロルの挑発に動じる様子は無い。
かと思えば急に腕を強く引かれた。
「な……ッ」
前屈みに重心が傾くと、そのまま彼の腕の中に閉じ込められる。突然の抱擁にチロルの顔が険しくなったものの、彼は少女の剥き出しになった耳元に唇を寄せた。
「――――……」
囁かれたその言葉に、動揺が走る。
「お前……ッ」
「このマチでの全日程が終わったら迎えに行く。それまでに腹を括っておいてくれ。僕の歌姫」
そう言い残し、おまけと言わんばかりにチロルの手の甲にキスを落とすと、彼はヒト波の中へと姿を消してしまった。
「チロルさん! 手ぇ拭いてください、ばっちぃですよ!!」
何やらオルトが騒いでいたけれどとてもそれ所では無い。嵐のように現れて風のように去っていったイルサの姿を見つめながら、チロルは小さく溜息をついた。




