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2-15 嘘の罪


 そうしてひと月程が経過したある日のこと。

 その時は唐突にやって来た。予兆なんてものは何も無い。


 チロルは自分の部屋の裏手で体を拭いていた。水を張った桶にタオルを浸して、体を清める。当然ながらその間は一糸纏わぬ姿で過ごしていた。


 当然もしもの時のことを考えて見張りを立てていたのだが、頼んでいたスタッフが機材トラブルのせいでほんの五分だけ持ち場を離れてしまったのだ。

 そしてその僅かな時間に、チロルの元へエマがやって来てしまったのだ。


 いつか絶対にその時は訪れると、大人達含めて誰もが分かっていた。それでも全員が目を瞑り、どうかそんな日が来ませんようにと願い続けていた時がやって来てしまったのだ。


「チロル……?」


 聞こえてきたその声は余りに無機質なものだった。突然心臓に冷や水を浴びせられたように、彼女の体がビクリと大きく跳ねる。

 何が起きているのかを理解して己の体を隠そうとした時にはもう、手遅れだった。


「エ、エマ……っ」


 見られてしまった。知られてしまった。


 彼女の前に晒されているのは傷一つなく、また特徴的な牙や体毛も無い顔。

 それからつるんとした陶器のような平坦な体。肋の浮いた脂肪の少ない貧相な子どもの身体。シルクスという揺りかごの中で大事に育てられてきた彼女の には、当然ながら理不尽な暴力の痕跡なんて刻まれて等いなかった。


 傷も、牙も、毛皮も鱗も尻尾も無い。

 装飾の全てを取り払った素体のようなそれは紛れもなく、ノルマレの体だ。


「何、それ……」

「こ、れは……」

「何その体? そんなまるで……いやいや、嘘だよ。だってチロルだって人間に酷い事されて、だからずっとお面を付けてて……」


 エマの視線が、チロルの左腕に止まる。何の印も付けられていない真っ白な腕。


 ギムの娘が印無しの筈が無い。まっさらな腕が示すのは、彼女の人権の有無では無く、チロルが印なんてものがなくても人権が保証された立場にある事実だった。

 要は人間である事の証明に他ならなかった。


「エマ……ッ」

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ‼︎」


 嘘をつきたかったんじゃない。

 本当の事を話せなかっただけ。だがそれでも彼女を傷付けたことに変わりはない。

 弁明を試みようとしたチロルだったけれど、そんな彼女の声を遮って辺りに轟いたのは、劈くような斑声。


 絶叫が鼓膜を揺らした。


「……ッ!」

「いやぁぁぁ! 助けて! 助けて‼︎ 人間が、人間が紛れ込んでる‼︎」

「エマ、待って。違うんだボクは……ッ!」

「殺される! ……殺せ! 死ね! 人間なんて全員死んじまえ‼︎」


 ひっきりなしに浴びせられる罵詈雑言にチロルは動けなくなってしまった。チロルを睨み付けるエマの目にはどろりとした薄暗い感情が滲んでいた。

 そこにあるのは純度の高い憎悪の念。


 エマの叫び声を聞き付けて直ぐに駆けつけた大人達が、暴れるエマを取り押さえる。しかし裸のまま呆然とするチロルを庇う獣人達の姿が、またエマの逆鱗を踏み躙った。


「なんで人間を庇うんだ! ソイツはここに潜り込んであたし達を殺すつもりなんだ!」

「そんな筈無いだろう。チロルは俺たちの仲間で、座長の娘なんだぞ!」

「関係無い! 座長も皆んな騙されてるんだ、殺さなくちゃ! ソイツは人間なんだ、殺さなくちゃ……皆不幸にされちゃう‼︎ 人間って生き物は全員揃いも揃って醜悪で、残忍なんだ。アイツだってあたしらの仲間の振りをして、どうやって全員の毛皮を剥ぎ取るか算段を立ててたに違いない! だから殺せ、殺せ‼︎ 出来ないんなら、あたしが殺す‼︎」


 拘束する大人の腕の中からチロルに向かって手を伸ばすエマの姿は、狂気そのものだった。


「やめてくれ、やめてくれ……! シルクスはボクの家族だ! 殺そうなんて……ある筈ないだろ……!!」

「それならどうしてあたしを騙した! 薄汚いノルマレが!!」

「……ッ」


 友人だった。友達だと思ってた。そんな彼女の鋭い爪が、自分の喉笛を引き裂こうと伸ばされている。


「ボクは……ボクは……っ」


 大人達によって無理やり引きずられて行ったエマの事をぼんやりと眺めながら、チロルは己の体を見下ろした。


 なんの特徴も無い、皮を剥がれ余計な物が取り除かれたような体。羽根をむしり取られた鶏肉のような素肌が太陽の下で照らされる。

 それを見てチロルは目に涙を浮かべた。


「気持ち悪い……!」


 どうして自分は人間なのだろう。

 この体がこんなものじゃなければ友達を傷付ける事も無かった。夢を追いかける事だって出来た筈。

 自分だけ、獣人に産まれることが出来なかったのだろう。


 なんで自分はノルマレなんかに生まれてきちゃったんだろう。


「チロル、しっかりしろ! 大丈夫か?」


 バニラの声掛けにも反応する事が出来なかった。

 初めて向けられた、獣人の持つ人間への激しい厭悪に満ちた眼差し。自分は家族達とは違う人種で、負の感情を向けられるべき対象であるのだと、彼女はこの時初めて自覚した。


「おい、チロル。しっかり……」

「バニラも……?」


 声や体が震えて止まらない。


「バニラも、ボクの事……嫌い?」

「は……?」


 エマの嫌悪は、本当に彼女が自分達人間に向けているだけのものなのだろうか。


「なんで……どうして……ボクが憎くないの……!?」


 バニラは。父は。

 今日まで一緒に過ごしてきた家族達も、ノルマレである自分の事をこんな風に恨んでいたのでは無いだろうか。今までは皆んなが大人だから我慢を強いていただけで、彼らの本心はエマと変わらないのではなかろうか。


「ボクはこんなにも醜いのに……!!」


 そんな疑惑がチロルの思考を絡めとる。

 怖い。怖い。

 ただそこにいるだけで、人間だと言うだけで、周りを傷付けているかもしれない。そんな自分が怖くて堪らない。


「触るな!」

「チロル⁉︎」

「いや、いやだ……なんで、どうしてボクは……ッ!」


 ガチガチと寒くも無いのに歯が音を立てて、体毛もない剥き出しの肌が泡立った。

 獣人に生まれていれば。自分にも牙や毛皮があれば、彼らと本当の家族になれたのだろうか。


「ふ、うぅ……ッ、う、うわぁ……っ、あぁぁ……ッ!」


 そんなふうに思えてならない。チロルは自分の体を抱き締めながら啜り泣く事しか出来なかった。



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