2-13 固まった意思
泣きながら走り去っていってしまったチロルを追いかける事も出来ず、中途半端に持ち上げられた右手が情けなく空を掴む。
チロルは舞台の上で歌いたそうにしていたからなんて、短絡的に物を考えて行動に移してしまった事を、今更ながらに激しく後悔した。本当に今更だ。先程の一言でチロルをどれだけ傷付けてしまっただろう。
その傷の本質的な意味は分からないけれど、彼女の尊厳を踏み躙ったと言う事実は覆らない。
「……」
傷付けてしまった事実は確かにその通りなのだが、何かがオルトの中で引っかかっていた。チロルの主張は一見まともなように見えるのに、おかしな箇所があるような気がしてならないのだ。
「あらあら、一足遅かったみたいね」
立ち尽くしていたオルトの元に、一人の女性が現れる。
「フ、フランさん……!」
「貴方が稽古場を飛び出していったからバニラに言われて迎えに来たのだけれど……まあびっくりね」
一言、間を置いてからフランがチラリと目配せをしてくる。自分も大概人間離れした容姿しているけれど、花束のような彼女の見目はとても異質だ。
伏せられた長い睫毛が頬に影を落とす姿は、流石はバニラと並び立ち舞台に立てる実力者だけあって何とも妖艶で、こんな状況にも関わらず心臓が小さく跳ねた。
「あそこまで的確にチロルちゃんの地雷を踏み抜く事ないのに」
「う……ッ!」
ド直球。体のど真ん中を太い矢が突き刺した。
涙ながらに声を荒らげた彼女の姿が脳裏を過り、オルトの表情を曇らせる。
泣いていた。自分がどれだけヘマをしても困ったように笑いながら許してくれていた彼女が泣きながら声を荒らげていて。それはオルトの発言にそれだけ彼女の心を抉る力があった事の証明に他ならない。
「……あの子が頑なに舞台に上がらないのは、私達のためなの」
私達と言うのが誰を指す言葉なのか理解出来ずパチパチと瞬きをするオルトに、フランは困ったように笑いながら「その辺りに座って話しましょうか」と声を掛ける。
フランに眉はないけれど、もし彼女が人間であったのなら眉を下げながら笑っていた事だろう。
フランに促されるまま、オルトは衣裳倉庫のトレーラーの入口付近に腰を下ろした。
「私達って、生き難いのよね」
今度彼女が指している私達は、獣人の事だと直ぐに分かった。
「仮に印付きで人権を持っていようとも、私達獣人が表立って付ける働き口なんてない。こうやって当たり前の生活が送れるのは全部、座長さんの傘の下にいられるから」
「それは……痛感してます」
もしシルクスがなければ現在所属しているメンバーの大半の獣人は路頭に迷うだろう。
多くの獣人は人間のマチから外れた場所に、獣人街と呼ばれるコミュニティを形成して生活している。だがそこは獣人達にとっても決して良い場所とは言えなかった。
激しい生存競争、それに伴い荒れた治安。薬物や暴力が横行し、ヒト攫いや強姦なんてものも当たり前。そこにビスティアマフィアや人間の既得権益者、裏社会の力も加わった結果、混沌としたスラムが出来上がっている。
人間が獣人に対して悪印象を抱きがちなのは、獣人街の荒れた様も大きな要因の一つだろう。結果更に獣人が人間社会に溶け込みにくくなり、獣人街が荒んでいく。嫌な悪循環がこの社会で出来上がっている。
「チロルちゃんが頑なに舞台に上がろうとしないのは、エマちゃんって子の影響なんですって」
「エマ……? あれ、ウチにそんな名前のヒト……」
「もういないの。その子、わたしが加入するよりもずっと前に死んだらしいわ」
「……ッ」
獣人の寿命は本来、人間のそれよりも長い。しかし奴隷として搾取される事が多く、又獣人街での死亡率の高さも相まって、現状獣人の平均寿命はけして長く無い。
それでもこの一座で死者が出たと言う話には些か驚かされる。それだけこの場所は、自分達にとって安心出来る場所になっていたのだろう。
「そのエマちゃんって子はね、元々獣人街の出だったらしいわ。わたしもヒト伝に聞いただけだから詳しく知ってる訳じゃないんだけれど……」
そう言ってからフランはかつてこの一座で起きたとある事件について語り始めた。
流血を伴う痛ましい記憶。
それはチロルが夢を殺すには十分過ぎる理由だった。
チロルの年齢が二桁になって幾ばくか経った頃、少女達は出会った。
エマは獣人街で生まれ育った獣人の子どもだった。しかし労働奴隷か、はたまた毛皮か。いつの間にか守ってくれる筈の親も帰って来なくなり、過酷な環境を一人で生き延びる必要に迫られた。
生きる為に悪事に手を染めざるを得ない獣人の子どもは大勢いる。彼女もその一人で、生きていくためにエマが生業にしていたのは盗みだった。
飢えを凌ぐ為の方法なんて他に無い。幸い、獣人の身体能力があれば店先からパンを盗むなんて取るに足らない。だがその日は運が悪く、いつも使っている逃走経路が潰されていて、店主に捕まってしまったそうだ。
印の無い獣人はケモノと同じ。店に入ってきた害獣を駆除したって誰にも文句は言われない。
大の大人が寄ってたかって少女一人を痛ぶった。彼らからしてみれば目の前にいるのはヒトではなく、ただのケモノ。罪悪感なんてものが湧いてくる筈もない。
原型が分からなくなる程顔が腫れて、肋骨が折れて。それでも十日ぶりにありつけたパンを、エマは必死に守ろうとした。
虫の息になった時、偶然その場にチロルを連れたギムが現れたそうだ。ギムは僅かばかりの金銭をちらつかせてその場を宥めると、瀕死の重傷を負ったエマをシルクスへと連れ帰ったのだ。




