1-2 花形と裏方
「バニラ! いつまで化粧に時間かけてんだ。もう出番が来ちゃうだろ」
語気を強め仁王立ちするチロルに対して、部屋の中にいたそのヒトは「ノックくらいしろよなぁ」と呆気からんと言い放った。
このトレーラーは楽屋として使用されている。壁際にはいくつものドレッサーが並べられ、演者達が舞台に上がる支度が出来るよう作られていた。
「そんなに自分と見つめ合って何が変わるんだ」
鏡といつまでも睨み合っているバニラの姿に呆れながら物申すと、彼は鏡の中の自分から視線を外す事無く、芝居めかした口振りでさもそれらしい理由を並べ立ててみせる。
「そんな事言ったってよォ、アイラインが微妙なんだよな」
「舞台の上からじゃそんなミリ単位の違い分からない。大体アンタの演目、高所での曲芸だろ。鷹の獣人でも来てなきゃ見えっ子ない」
「その鷹の獣人が来てたらどうすんだ。美しく、天才的なオレを、最上の状態で届ける。それだってプロの仕事だろ」
「プロを名乗るならタイムテーブル乱さないでくれ。フランがもう舞台に上がってるんだぞ」
「わーってるよ」
そう言うと彼はようやくメイクボックスを閉じて鏡の前から立ち上がった。
「うん、今日のオレも完璧。やっぱり自分の見目に自信が持てなくちゃ、良いショーは出来ないよな?」
「はいはい、分かったから。とっとと行ってこい。下手な芝居したらはっ倒すからな」
「心配しないでも。キチンと観客を湧かせてきますよ」
ひらりと手を振って、バニラはチロルの隣を通り過ぎていく。
金糸の刺繍が施された真紅のジャケット。その隙間から覗く薄黄金色の細長い尻尾が、ゆらゆらと揺れる。自信に満ちた表情と、文句の付けようが無い陶芸品のような端正な顔立ち。
彼の立ち居振る舞いはまるで、一級の人形師がこさえたビスクドールを思わせる美しさを纏っていた。
「なんてったって俺は、この一座の花形なんだからな」
そして吐き出されるキザったらしいセリフと、根底に見え隠れする自意識過剰なナルシズム。
客席くらい距離が離れていれば顔の綺麗さだけが見えるだろうけど、対面で会話しているとまあまあウザい。いや、まあまあとは言わずかなりウザい。
だがきっと彼はその言葉通り客席で感動の喝采の渦を巻き起こすのだろう。
どうしてか。
彼がこのシルクスの看板だからだ。
花形とはつまり一座の顔。バニラはその役目を背負っている。どんなに辛い事があっても笑顔で客の前に立つ。そしてその一挙一動で見るものを魅了し、沸き立たせるのだ。
父の夢が暗闇に包まれた世界で束の間の光をもたらす事なら、その体現者は間違いなくバニラなのだろう。
(……凄いな、バニラは)
楽屋の扉がバタンと閉まる。彼が立ち去ったトレーラーの中でチロルは拳を握り締めた。
父であるギムがこのシルクスを立ち上げてからもう十年。
チロルは今年で十五になる。
チロルとバニラは座長のギムに拾われ、兄妹同然に育った仲だった。スタートラインは同じ。それなのに長い年月を経て、バニラとの間に途方もない距離を感じていた。
今のチロルの歳の頃、バニラはもうスターとして舞台に上がり、拍手喝采を浴びながらスポットライトを浴びていた。
(それなのに、ボクは……)
チロルは自分が身につけているシャツを見下ろした。真っ赤な薔薇の造花があしらわれたバニラの舞台衣裳とは比べ物にもならない、動きやすさ重視のみすぼらしい作業着が視界に映り込む。
オーバーサイズのツナギの膝についているのはエンジンの修理をした時についた油染み。腹の辺りの煤けた汚れはテントの設営時についたものだったか。
(仕方がないことだって、分かってるんだけどな……)
自分の立ち位置は誰よりも一番理解しているのは他ならぬチロル自身。だからこそ我儘を言って周りを困らせるような真似はしない。
分かっている。分かっている。
でもそれは悔しくないって事じゃない。
(シルクスは獣人のためのサーカス団だ)
シルクスはスタッフ、キャストの全員が獣人で構成されている。ギムの願いを形にしたこのサーカス団の姿に、チロルも賛同しこの身を捧ぐ決心をした。
(裏方でも所属が認められてるだけ恩情。完全な身内贔屓だ。座長の娘じゃなかったら、とっくの昔に追い出されててもおかしくない)
つるんとした丸い耳を隠すための、大きな猫耳がついた変形ニット帽。
牙も無ければ特徴的な体毛もない、薄い顔を誤魔化すための奇抜で派手なメイク。
爪を模した装飾がついたフェイクファーのアームカバー。素足を覆うファー付きのタイツに、足の大きさを誤魔化すための特注爪付きシークレットブーツ。オマケに腰には尻尾を模した腰飾り。
そうやってゴテゴテとあれそれ身に付け飾り立てても、自分は本物にはなれやしない。
チロルはそっと自分の鼻や頬に触れた。
(ああ本当に……このぺしゃんこの鼻が嫌になる。小さい耳も、毛のない体も。ゆで卵みたいで嫌になる)
身に纏う全てを取り払ってしばえば、そこに残るのは獣の要素なんてまるでない、飾り気のない裸体だけ。鱗も尻尾も牙も何も、チロルは一つだって持っていない。
「……って、早く戻らないと」
バニラを呼びに来たのだ。彼がいなくなった楽屋に何時までも残っている意味は無いじゃないか。ショーはまだまだ終わらない。客前に立つ事はなくたって、仕事なんて幾らでもあるのだから。
(そろそろエンディングパフォーマンスで使う小道具出しておかなくちゃ)
チロルが舞台袖に差し掛かった時、バニラのショーが最初の山場を迎えたのだろう。ワッと今日一番の歓声が上がった。
鼓膜だけじゃない、体全体を震わせるような歓声。肌がビリビリと揺れる。
(ああ、遠いなぁ……)
兄が作り出した熱気に目が眩んだ。
どうして。
どうして舞台はこんなにも眩しいのか。煌びやかで華やかで、こんなにも遠いんだ。
「……」
チロルは黙って空を見上げた。あの日、父から夢を語られた時と比較すると星の見えない暗い空。
ここは獣人サーカス団だ。そのコンセプト上、人間であるチロルが舞台に上がる事は出来ない。どれだけ装飾品や化粧で誤魔化したところで、彼女の人種が変わる訳では無い。
「分かってるよ……でも……」
一度で良い。たった一回で構わない。
自分だってサーカス団の一員として舞台の上に上がってみたい。
満点の星空よりもずっと眩しいスポットライトの明かりに照りつけられながら、大勢の観客達の前で思いっきり歌ってみたい。
自分の力で、声で、ヒトを湧かせてみたいんだ。
叶わぬ願いである事は百も承知。それでもチロルはずっとずっと、来るはずの無い自分の出番を待ち続けていた。