2-9 すれ違う心
……驚いた。
歌を歌いたくて森に来てみたら、まさかこんな場面に出くわす事になるとは。
木陰に隠れたままチロルは立ち尽くしていた。幸いな事に彼女がいる場所は二人からすると風下に当たるため、チロルの盗み聞は獣人である二人相手にもバレていない。
(それにしても……)
背後の木に体を預けながら、チロルは夜空に視線を向けた。
(アイツ、愛玩用の奴隷だったのか。それなら日常的な事、何も出来なくて当然だよな。バニラだって昔は沢山苦労していたもんな……)
不器用な彼が少しでも早く仕事を覚えられるようにと、あれこそ思案して力を貸したつもりだったけれど、要らないお節介だったのかもしれない。
(やっちゃったな……)
これはきっと自分の力不足が招いた結果だ。
彼の特性を考えれば、裏方ではなくキャスト向きなのは明白。
本当はチロルだってその方が良いのでは無いかと、このまま無理に苦手な事をさせて彼の自尊心を削ぎ落とす事はないんじゃないかと心のどこかで思っていたのだ。
(分かってたのに、自分から言い出せなかった)
理由は単純。ずるいと思ってしまったから。今だってそうだ。心の底からオルトの門出を応援する事が出来ない。内心、妬ましく思っている。
自分が立つ事が出来ない舞台への切符を掴もうとしている彼が、妬ましいのだ。舞台衣裳に袖を通さないと決めたのは他でもない、自分自身の筈なのに。それでも悔しさが込み上げてくる。
ずるい。ずるい。
ボクだって、スポットライトの下に行きたいのに。
(ボクって本当、嫌な奴だ)
ずっとずっと我慢していたのに、どうして入ったばかりのオルトがキャストになれるんだ。獣人だから。たったそれだけの理由で。
(彼を救いたいって思った末路が、こんな嫉妬心だなんて)
自分とオルトではそもそもの立ち位置が異なっている。頭では分かっているのに、感情が追いついてこない。そんな自分に自己嫌悪が募る。
「……くそッ」
そんな自分を直視したくなくて、チロルは逃げるようにその場を後にした。
自分達の会話をチロルに聞かれていたとはつゆ知らず、バニラとオルトは、オルトのキャスト加入の話を進めていた。
「オレが、キャストですか……」
「ヒト前に出るのは嫌か?」
「……好ましくはありません。元の飼い主はオレを見せ物みたいに、他の貴族に自慢して回ったりしていたので。その……容姿を値踏みされるような好奇の目は、正直なところ……えっと、気持ちが悪いです」
「分かる分かる。アイツら俺たちの事なんざアクセサリーの一つとしか思っちゃねぇからな」
「そうなんです……!」
初めて得られた他人からの共感にオルトの声が上擦った。自分が思っていたよりも大きな声を出してしまった事に「すみません」と頬を赤らめるオルトに、バニラはくつくつと肩を揺らす。
「好奇の目ってのは変わらないかもしれねぇ。実際、獣人だけのサーカス団なんて、フリークショー程度の見方しかされねぇからな。ただ、最初は、だ」
「どういう事ですか?」
「実力で黙らせんだよ。観客ってのはこっちが思ってる以上に素直だ。フリーク紛いな大道芸だって、良いもの見せりゃそれ相応の反応をくれる。最終的には獣人だとかなんだとか言ってた連中の目線は、実力で全部ひっくり返せんだよ」
そう語るバニラの瞳は、獲物を前にした肉食獣のようにギラギラしていた。彼が舞台に掛ける情熱やプライドが、その瞳に全て宿っているようだ。
「愛玩奴隷だった俺達は自分の見せ方を分かってる。どういうものが好まれるのか、理解した上で振る舞える。過去にあった事は変えられねぇけど、これって凄い財産だと俺は思ってるぜ」
「貴方は……奴隷だった自分も肯定してるんですか?」
「あの日々の屈辱を忘れる訳じゃない。ただ、全部引っくるめて今の俺ってだけよ」
舞台に上がる事を嫌だと思った時期がなかった訳ではない。ただそれでも引けない理由が彼にはあって、それはとても単純なものだった。
「何より、舞台は面白いんだよ」
スポットライトの下、自身に向けられた熱狂を一度味わってしまったらもう、戻る事なんて出来ない。あの興奮を、快楽を、手放せるものか。
自分を見ろ。
歓声を上げろ。
お前達の前に立っているのは、シルクスの花形『城ヶ崎バニラ』だ。
そんな感情に突き動かされ、目が眩むような光の下、熱に照らされながら舞い踊る。
アドレナリンが血液を満たす言い様の無い昂りを、どうすれば忘れられようか。
酒や果実じゃこの乾きは満たされまい。薬物にも似た興奮は、あの場に立ったものにしか理解出来ない。だからバニラは舞台の真ん中に立ち続けるのだ。
「悪い話じゃねぇだろ。お前を勧誘するって話は、既にギムさんにも通してある」
「座長はなんと……?」
「最終的な決定はお前に任せるそうだ」
バニラからの誘いに、オルトは感心を持っている様子だった。かつて同じ立場に立たされていた男の言葉は、響くものがあったのだろう。バニラもそれで良いと思って声を掛けた。苦手に苦しむくらいなら、得意を活かした方が良い。
「チロルさんは……」
だが彼が最初に出したのはこの場にいない少女の名前だった。
「チロルさんは、どう思っているんでしょうか?」
「……チロルこれ以上迷惑掛けるんだったらキャストになろうって後ろ向きな動機なら、誘いはなかった事にしてもらうぜ?」
「いえ、そうではなくて……」
そう言うとオルトは自分の胸に手を当てた。
飾り気のない本心と向き合って、それを表現出来る最適な言葉を探している様子だった。
「オレが今オルトなのは、あの人のお陰なんです」
「そういや、今のお前の名前ってチロルが付けたんだったな」
「はい。元飼い主からも名前は付けられてましたけど、あれは所有物を呼称するためのものだった。市場に戻されてからはずっと番号で呼ばれていて。オレにとって名前と言うのは……この肉の塊を指すものでしかなかったんです。でも、あの日チロルさんが……」
目を閉じて彼が思い出している光景はバニラには分からない。だがきっとオルトにとって、それは何よりも尊いものなのだろう。
「あの日チロルさんがオレを、オレ個人にしてくれて……オレの人生はそこから始まったんだろうって、本気で思ってるんです」
その言葉にバニラはホッと安堵感に包まれる。
ああ、なんだ。心配する事ァなかったじゃねぇか。
バニラが後から気を揉まなくても、チロルは最初。出会った時にオルトの事を引っ張り上げられていた。
彼女が与えた名前こそが、その何よりの証明なのだ。




