2-6 先輩の苦悩
「……チロルさん、もしかして照れてますか?」
「だから黙れって言ってんだよ」
「いてッ」
恥ずかしさを堪え切れず、彼の脇腹にパンチを打ち込んだ。しかしながらチロルの貧弱な打撃は分厚い筋肉に阻まれ、大したダメージにもなっていない様子。
「クソ……筋肉ダルマめ……」
「……あの、チロルさん」
「黙れ」
「……どうして舞台に上がらないんですか?」
それ程歌が上手いのにと彼は続けた。
「舞台に上がらない理由、ね……」
無知が故に、痛い所をついてくるものだ。だがシルクスに加入して間もない彼には、チロルの事情を察しろと言っても無理な話。
「ヒト前で見せ物になるのが嫌なだけ」
「そう、ですか……」
オルトからそれ以上の追求をされる事はなかった。知らないなりに何かを感じたのかもしれない。
「……チロルさん」
「なんだよ」
「またオレに聞かせて貰えませんか? チロルさんの歌、とても好きです」
「……お前が仕事覚えたら、考えてやらないでもないかな」
「手厳しいっすね」
クスリと肩を揺らして見せるオルト。柔和な表情はまるでこちらをあやす様で、気恥しさからチロルは視線を森の奥に逃がした。
オルトのここでの暮らしは失敗続きで、お世辞にも今良い環境にいられているとは言えないだろう。
だけれどもそんなオルトがこうして笑みを見せてれた事がチロルは素直に嬉しかった。
「チロルさん、オレ頑張りますね」
「気負わなくて良い。無理してミスするんだったら、ゆっくりで良いから仕事覚えろ」
「はい」
「……ボク、また言い方キツくなってるか?」
「大丈夫です。分かってます」
月夜の下、月のように金色に光る瞳がこちらを見つめてくる。狼のような険しい顔立ちをしているけれど、その瞳はとても優しいものだった。
「月が綺麗ですね」
満月のような瞳が、不意に頭上を見上げてそう言った。彼が顔を背けた瞬間、隠れてしまった月が少しだけ名残惜しかった。
「ボク、こういう静かな夜は好きだよ」
「オレもです」
しばらく二人は会話もせずに夜空を見上げていた。
遠くで風があそぶ音がする。人間も獣人も寝静まった静かな夜。本当に世界が終わってしまったみたいだ。
「と言うか、お前いつになったらボクにタメ口使うんだよ」
「先輩にそう言うのは気が引けると言いますか……」
「ボクが良いって言ってるんだから良いじゃないか」
「じゃあ、オレが胸張ってチロルさんの隣に立てるようになったら、その時は」
「何だよそれ、抽象的だな」
その日が早く来れば良いのに。
敬ってもらいたい訳じゃない。年齢は上だけれど弟みたいな手のかかる弟と、もっと自然に仲良くなれたら良いのに。
短い会話をした後、明日も早いからとそれぞれの自室へと戻る事にした。
「おやすみ」
「おやすみなさい、チロルさん」
オルトと別れて自分達のトレーラーに帰ると、フランが静かに寝息を立てていた。彼女を起こさないようそっと自分のハンモックに上がり込み、チロルも目を閉じる。
オルトに歌ってるところを見つかってしまったの想定外だったけれど、今日は悪い夜ではなかった。むしろずっと欲しかったものを与えて貰えた夜だったように思う。
今日の事を数年後にふとした時に思い出して、胸の中をじんわりと照らしてくれたら素敵だな。そんなふうに思った。
(招待したら、アイツはまた夜中でもボクのところに来てくれるのかな)
観客のいない一人きりの舞台に不満があった訳ではない。だがオルトがくれたまっすぐな賞賛がチロルの胸の内側の、柔らかいところを優しくくすぐっていた。鳩尾のあたりからあったかいものがじんわりと広がる感覚に、ついつい口角が上がってしまう。
バニラが巻き起こす舞台の熱狂とはきっと違う、もっと優しい多幸感。ふわふわの羽毛布団に包まれるような緩やかな幸せに満たされる。
(スミレさんはどんな気持ちで歌ってたんだろうな……)
幼い頃に見つけた憧れの切れ端を大事に握り込みながら、チロルは眠りについた。
その日見た夢の内容は、朝起きた時にはすっかり忘れてしまっていたけれど、心の真ん中には温かい気持ちが残ったままだった。
そこからはオルトも仕事を覚えて、純忠満帆な日々がやって来る。
……なんて事になれば良いのだけれど現実はそう甘くない。
つい先程、オルトが夕飯用の大鍋に入ったシチューをひっくり返した。幸い、熱々の鍋の中身を被って火傷を負うような被害者は出ていないけれど、大所帯の食事で鍋一つダメになるのはなかなかの痛手だ。
「も、申し訳……ございません……ッ!」
オルトは顔を真っ青にして、何度も頭を下げていた。腰が痛まないか心配になるくらいに、何度も何度も。
「兎に角、溢したものを片付けて代わりになるものを用意しよう」
チロルはさっさと掃除の支度と、残っている食材で短時間のうちに用意出来るメニューを考える。
「よし、あれなら今からでも間に合うな。……オルト」
声を掛けると彼の体がびくりと震えた。迷子の子供のように視線があっちこっちを彷徨っている。
そこまで失敗にビクつく事なんてないんだけれど、どうにもコミュニケーションが上手くいっていない。
「お前は食在庫からジャガイモと小麦粉、あと卵を運んできて」
「は、はい……っ」
体を強張らせながら、彼は慌てて走り出した。そんな背中に焦らなくて良いからなと小さくなっていく背中に声を掛ける。
野菜を洗剤で洗ったりしなくなっただけ進歩の筈なんだけれど。
どうにも彼の中には失敗体験ばかりが積もってしまっているようだ。自尊心が激しく損なわれ、何をするにも怯えてしまっている様子が見て取れる。それこそ、痛々しい程に。
確かに人よりも低い段差で躓く事は多いけれど、それでも出来る事だって一つずつ増えている。
それでも彼が失敗の度に強い自責に囚われてしまうのは、自分自身を肯定出来る経験を積めなかったこれまでの半生が、最大の要因なのかもしれない。
(こう言う時、バニラならもっと上手い声掛けや立ち回りが出来るんだろうな……)
オルトではなく、スムーズに仕事を回してやれない自分自身に苛立ちが募る。
どれだけ忙しくても日々幕は上がるから、泣き言を吐いている暇もない。だからどうしてもいつもの業務の合間に彼への指導をしなくてはならないのだけれど、その両立にチロルも苦戦を強いられていた。
(オルトをここに連れてきたのがボクだから、自然とボクと同じ裏方の仕事を手伝わせるようになったけど……そもそもアイツには不向きなのかな)
ヒトよりも力が強い彼に裏方仕事は厳しかろう。特にチロルは団員の中でも手指が細い事もあり、細かな仕事が回される事も多い。
だがそうなって来ると、今度彼が回されるポジションは……。
一瞬、ほんの一瞬だけ、暗い感情が胸に落ちた。
(いやいや、何を考えてるんだボクは)
チロルは大きく頭を振ると、溢れてしまったシチューの掃除に精を出す。
「……」
(もしかしてこれは……ボクのエゴでしかないのか?)
しかし先程脳裏に過った考えが頭の片隅にベッタリと張り付いてなかなか消えてくれない。
どろりとしたヘドロみたいな感情が視界を狭めようとする。
「チロルさん持ってきました!」
「……! ……ああ、ありが……」
思考に足を取られるのは朝食を作ってからでも遅くない。
気を取り直して背後からの呼び掛けに振り返ったチロルだったものの、目の前の光景にピタリと体を硬直させる。
「……大道芸か?」
「へ?」
じゃがいもひと袋、小麦粉ならば小袋一つ、卵にしたって三パックあれば十分だけど。
じゃがいもの入った麻袋三袋を右腕に、小麦粉の大袋を三つ右腕に抱えた状態で、器用に頭の上に卵の入った木箱を乗せたオルトが立っていた。
「数の指定をしなかったボクが悪いんだけど……そこはごめん」
「足りませんでしたか?」
「それがうちの何食分だと思ってるんだよ。後危なかっしいから卵はせめてちゃんと手持ちして来い! 割ったらどうするんだ、最近卵高いんだからな!」
「す、すみませんでした‼︎」
慌てて謝罪をしオルトは持ってきた食材をその場に下ろした。
ドスッドスッと大きな音を立てて置かれる麻袋は、見るからに重たそうだ。
(あの袋一つだけで二十キロはあったはずだよな……ボクじゃ麻袋一つ持ち上げるのだって無理なのに)
なんて力だと呆れる一方で、あれだけの怪力ならばチロルが行うような細かな業務の補佐をしようにも枷になるのは当然の話。
それならばやはり今の彼にとって適切なポジションは……。
そう考えつつもチロルの表情に浮かぶのは暗い影ばかりだった。




