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2-4 夢の切れ端



   〇〇〇



 チロルには誰にも言えない秘密がある。


 皆んなが寝静まった時間帯、同室のフランを起こさないようトレーラーを抜け出すと、サーカス団の生活区の外へと向かう。


 現在、シルクスが滞在しているマチ外れの野原のには近くに森があった。

 テツノキ程大きくは無いものの、森の中にも旧時代の遺物が残されている。ここはきっと人工的に作られた森なのではなく、かつてあったマチを飲み込むようにして広がったものなのだろう。


 森の入り口から少し入った所まで歩いていけば、ある程度声を出してもサーカスの方には届かない。チロルは使用用途の分からない奇妙な形をした鉄の塊に腰掛けた。鉄のひんやりとした感覚がお尻に伝わってくる。


 風の音と鳥の声が森の奥から聞こえてくるだけの静かな夜だ。季節はもう三月。夜風はまだ春の気配を残しているけれど、日中はそろそろ夏物が必要になるだろう。


 目を閉じると邪魔するものは皆いなくなる。世界に一人ぼっちになったらこんな感じなのかもしれない。


 今のこの瞬間だけは誰にも邪魔されない。

 チロルはスゥッと息を吸い込んだ。

 夜の冷たい風が肺に流れ込んできて、胸の内側でサラサラと音を立てた。


 呼吸を整えると、チロルは歌声と共に息を吐き出した。


 ――揺れる髪靡かせ 旅立つは懐かしき香り

 ――浮橋に辿り着けど まだ光は遠く


 小さな体が奏るのは、海馬に眠った懐かしいメロディ。



 子供の頃、まだギムがシルクスを作るよりも前の事。チロルは夢の切れ端と出会った。


 詳細な理由なんて覚えていない。バニラ言い争いをして、チロルは当時借りていた宿を飛び出した。


 ふと気が付いた時には知らない場所を一人で彷徨っていて。自分から出て来た筈なのに心細さから泣きながら歩いていたのだ。夕暮れのマチ。広がるオレンジ色が心を揺すぶっていた。


「あら、どうしたの?」


 泣きじゃくる少女に声を掛けたのは、派手な化粧をした人間の女性。露出の高い衣裳の上から厚手のカーディガンを羽織ったその人は、ぐずぐずと鼻水を垂らした子供を抱き抱えると「迷子になっちゃったんならちょっとおいで」と、チロルを近くにある店の中へと招いてくれた。あの頃のチロルはまだ、獣人を模したメイクなんてしていなかった。


 女性に連れられて入った店の中は、薄暗くてぼんやりとした灯りに照らされていた。酒の匂いと、むせかえるような何かの甘い匂いに驚いて、気が付いたら涙は引っ込んでいた。


 テーブルには男性客が座っており、それぞれのテーブルに彼女のように肌を見せた女性達が付いていた。水煙草のような煙がもくもくと広がる何かを皆が吸っていたため、室内は少しだけ靄が掛かったように白んでいて、今になって思えばきっとあれが甘い匂いの正体なのだろう。


 今思い返せばあそこがどう言う場所だったのか分かるけれど、幼い当時のチロルには女性が何を生業にしているのか、その場所で何が行われているのかもてんで検討が付かなかった。ただ、不思議な場所に誘われたなと、白兎を追いかけた少女のような気分で目の前の光景を眺めていたものだった。


「スミレちゃん、どこ行ってたんだよ」

「どうしたその小さいの? まさかスミレちゃんの隠し子?」

「そこの通りで迷子になってたから暫くここにいさせておこうと思って。獣人なんかに見つかったら、連れ去られちゃうかもしれないだろ?」


 スミレと呼ばれたその女性はそう言って、店の隅のテーブルにチロルを着かせた。


 どうやら皆が彼女の登場を心待ちにしている様子だった。何が始まるのだろうと、チロルはただ見ている事しか出来なかった。


 スミレは羽織っていたカーディガンを「持っていてね」と言葉と共にチロルの肩に掛ける。サイズの合わない上着には、この店に充満した甘い匂いが染み付いていた。


 胸元と背中の露出、それから足のスリット。ボディラインを強調した妖艶な衣裳に身を包んだスミレが、店の一角に作られたステージに立つ。


 大勢の視線を一身に集めるその先で。

 彼女は歌い出したのだ。


 スミレが歌っていたのは夢の歌だった。希望を見出して、その先に光があると信じて浮橋を渡る少女。

 かつて見た憧憬が背中を押す。夜明けも朝日もまだ遠い。それでも少女は夢を見る。

 長い長い橋。一寸先すら見えなくても、それでも少女が希望を捨てる事はない。目指したもの憧れたものが、橋の向こうにあると信じて。


 そんな歌を歌っていた。


 ふとスミレとチロルの視線が絡み合った。

 その瞬間にパチンとスミレがこちらに向かって目配せをしてきた。


「……ッ」


 パチンっ!


 と、身体の中で熟れた果実が弾ける音を聞いた。

 あの瞬間にチロルの中で何かが変わった。


 一曲、また一曲とスミレが歌う姿を、チロルは食い入るように見つめていた。何かに心を動かされる時、きっと動機なんてあってないようなものなのだ。

 あの時あの瞬間、この世界にあるどんな高価な宝石よりも、歌う彼女の姿の方がチロルの目には美しく映ったに違いない。


 確かに場所は場末の娼館だったのかもしれない。それでも少女の中に芽生えたのは、決して誰にも否定する事が出来ない本物の煌めきだった。


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