1-15 救いの手
声を上げるよりも早く、チロルの上に跨っていた男が吹き飛んだ。長い足に蹴り飛ばされたのだと理解したのは、体に掛る負荷が消えてから二秒後の事。
一緒にいた仲間の男も、屈強な獣人達によって組み敷かれていく。その様子をチロルは零れそうな程大きく見開かれた目で見詰めていた。
「なんで……」
振り返った彼女の前に立っていたのは、片足を上げたバニラだった。目と目が合うと猫のようなアーモンド型の目がニッと細められる。
「悪いなチロル。迎えに来るのが遅くなっちまった」
「バニラ……っ!」
彼だけではない。シルクスの仲間達がチロルを助ける為に駆け付けてくれたのだ。
見知った顔を前に、張り詰めていた緊張の糸と涙腺が一緒になってが解けていく。
「バニラぁ……っ!」
「あーあー、怖かったよな。よく頑張った、よく頑張った」
傷を負ったチロルの前でバニラが膝を折ると、ぐちゃぐちゃになってしまった髪を優しく梳いてくれた。
「どうして、今日の公演は……」
「チロルが帰ってこねぇってなって、公演なんてやってられるか。誰かが欠けた状態で幕は上げられねぇ。座長の意向だ。ウチはそう言うところだって、お前が一番良く知ってんだろ」
「う、うぅぅ……っ、ありがとぅ……ッ」
そうだ。自分達の家族は優しいのだ。例え公演に穴を開けてしまったとしても、誰かの為に動く事が出来る。獣人だからじゃない、そう言うシルクスがチロルはだいすきだった。
「逃げる時に無茶しただろ。腕、痛むか?」
バニラの言葉に彼女の表情がサッと青くなった。
安堵感に包まれて泣いている暇なんてない。そうこうしている間にも彼は一人、あの場所に取り残されているのだから。
「バニラ助けて! ボクを助けるためにアイツが……!」
予想打にしなかったチロルの言葉にバニラの表情が曇った。今回の誘拐事件、チロルを助けておしまい、という訳にはいかないのだ。
「全く……手間かけさせやがって」
ぐるりと猟銃を持った男達に取り囲まれた真ん中、意識が朦朧として床に伏しているオルトの姿があった。
短く浅い呼吸を繰り返し、目は虚で、半開きになった口からは涎が垂れている。チロルを逃がすまでの彼とは様子が一変していた。
「大型獣用の麻酔弾を数発打ち込んでんのに、一時間以上暴れ回るって……化け物かコイツ」
「何人か巻き込まれて伸びちまったけど、アイツら死んでねぇよな?」
足元に転がされているはずなのに、オルトには彼らの会話が遠くから聞こえている。
これから自分がどうなるのかだとか、そんな事はどうでも良い。牙を抜かれて装飾品にさせられるでも、皮を剥がれてファーコートにされるでも、もう何でも良かった。
(あの子は無事に帰られたのかな……)
頭の中にあるのは、チロルと名乗ったあの人間の少女の事ばかり。
不思議な少女だった。
人間なのに獣人の自分を助けようとしてくれた。
外の世界の可能性を示してくれた。名前を与えて、個人として扱ってくれた。
彼女の言動の意味は分からなかったけど、ただその気持ちが嬉しかったのだ。少々口は悪かったけれど、それもなんだかこちらを対等に扱ってくれているようで嬉しかった。
束の間に外の世界の夢を見れただけで十分だった。自分が囮になって彼女を逃がす事にも一切の抵抗は無い。
彼女には帰る場所があるらしい。人間と獣人がどうやって家族になれるのかオルトには想像もつかないけれど、それでも彼女の事を待つヒト達の元へ返す事が出来たのなら、その時初めてこの人生に意味が生まれるような気がした。
本当に自分が広い場所に出ていくなんて、そんなものは過ぎた夢だ。せめてあの子が無事に帰ってくれればそれで良い。
人間の体でこんな高い場所から落下をして怪我をしていないだろうか。あの細い足で追手からちゃんと逃げ切れただろうか。
(労働用の奴隷になるのは御免だな……それくらいならいっその事殺されてしまった方が良い)
もう人生そのものに嫌気が差していた。いっその事楽になってしまいたい。
うつらうつらと意識が遠のいていく。このまま静かな眠りについて死を迎える事が出来たのなら、それも悪くは無い。
自分の人生に最初で最後の意味を作って死ねるのだったら。あの子を助けて死んだと言う功績を残して逝けるなら。
こんなクソッタレた世界に自分が生まれた意味を見出せるのではないか。
もう瞼が重たい。その重みに抗う理由も無い。そう思っていた筈だった。今まさにこの瞬間までは。
「……っ」
オルトの視界に光が点ったのだ。いよいよ天の国の入口に立ってしまったのかと早とちりしたけれど、どうもそうでは無いらしい。
開かれるはずのない倉庫の扉が開かれる。
腫れてしまった瞼の隙間、光の中に人影が見えた。
泥だらけでボロボロ、お世辞にも綺麗とは言えない身なりをした天使が彼の前に現れる。
「オルト……ッ!」
貰ったばかりの真新しい名前。名前なんてものに何の頓着も無かったけれど、この時ばかりは与えられた名前がこれで良かったと心から感じた。
彼女の声で呼ぶその名前は、とても美しい響きをしていた。