1-14 見えない帰り道
「はぁ……はぁ……ッ」
喉の奥がジリジリと痛む。肺が空気を求めて膨らみ心臓が早鐘を打つ度に、打ち付けた腕に鈍痛が走った。痛みに目は眩み、足がもつれる。
こんなに苦しいのに、恐らく大して前には進めていないのだろう。
(せめて人がいる通りにまで出られれば……!)
そう思うのだが、走れど走れど見知った場所に辿り着かない。森から抜け出せる気配も無い。そもそも今のチロルの足ではそもそも然程遠くまで走って逃げる事も叶わなかろう。
一向に変わらない景色に絶望感と焦燥感が募っていく。
(公演の準備はもう始まってる。そうなれば助けは来ない……仲間達に助けを求められないとなると……)
変わり映えのない景色と次第にジワジワと大きくなっていく体の痛み。朦朧とした意識の中、それでも気力を振り絞って足を前に進める。
走れ、走れ、走れ。止まるな。
逃げなければ、彼の命まで危ぶまれるのだから。
「いたぞ、逃げ出した奴隷だ!」
ああ、なんで……!
どれだけ走っていたろうか、ついねその時はやって来てしまった。大通りやサーカス団のテントに辿り着くよりも先に、背後から男達の怒号が聞こえてきたのだ。
「どっちに逃げれば……!」
見つかってしまった。怪我を負ったチロルの足で複数の追っ手から逃れられる可能性は無いに等しい。それでも可能性を求めてチロルは視線をさ迷わせる。
「あ……っ‼︎」
しかし背後を気を取られた結果、木の根に足が絡まってしまう。なす術もなくチロルはその場に転がった。
「クソ……ッ!」
それでも何とか立ち上がって彼らから距離を取ろうとする。なのに足が思うように動いてはくれない。
痛い。痛い。でもここで自分が捕まってしまっては、何のためにオルトは囮になってくれたのか。チロルはジタバタと踠いている間に、非情にも男達が追いついてきた。
「手間かけさせやがって」
「うぁ……ッ!」
頭に被っている耳を模した帽子はいつの間にか脱げて何処かに行ってしまった。色素の薄い髪を鷲掴みにされて、うつ伏せの状態から無理矢理、頭を持ち上げられる。
「さっさと連れ戻すぞ」
「でもどうするんだよ。人間なんて売れないぞ」
「獣人の振りして歩いている奇妙な女なんだ。どうせ地下にでも住み着いてるんだろ。居なくなったって分かりゃしねぇ。目玉は金になりそうだから抉って売るとして、それ以外なら使い道あんだろ」
そう言うと男はカクカクと腰を振る。
「ガキ使う趣味はねぇよ」
「やって見なくちゃ分かんねぇだろ。突っ込んだまま、目玉ほじくろうぜ」
目に涙を浮かべながら、チロルは必死に男達を睨み上げる。抵抗にすらならない抵抗だけれど、それでもここでそれを止める訳にはいかなかった。
「売れるもんなら、売ってみろ……!」
「あー? 今更命乞いか? やめておけ、奴隷として売られるくらいなら俺たちの方が優しくしてやるからよ」
「ボクら言葉を教えてくれたのは獣人だ。礼儀作法を叩き込んでくれたのも、クソッタレた世界での歩き方を教えてくれたのも、獣人だ。ボクの体は人間だけど! この心は獣人だ!! そんなボクを、売れると言うのなら売ってみろ!」
ふーふーと肩で息をする。
チロルの決死の叫びなんて誰にも届かない。
彼女を抑え付けていた男が、腰からナイフを取り出した。眼前に切先を突き付けられ喉が小さく震えたものの、それでもチロルは決して目を逸らさなかった。
「お前らなんかに殺されたって、この牙が折れるもんか!」
恐怖に体が竦んだとしても、チロルは吠えた。
自分は人間だ。大きな牙もなければ、壁に突き立てられるような強靭な爪もない。
それでも彼女はシルクスの団員だった。
例え本当に獣人になれる事はなくても、理不尽に向かって吠えるための、この牙を失う訳にはいかなかった。それだけが唯一、獣人になる事も出来ない哀れな少女にとっての自己証明なのだ。
「……そうだ、俺達はビスティア。誇り高き獣人だ。例え命を取られようとも、己の牙を失っちゃいけねぇよな?」