ロイス(1
※少々胸糞表現有
ツン、と鼻をつく濃厚な鉄錆の臭いにロイスは眉をしかめた。
――どこだ、ここは?
客間だろうか、高そうな調度品が見える。
でも普段はあまり使われていないだろうことは室内のちょっとした様子でわかる。
テーブルは隅にやられ、椅子は重ねて2脚ずつの塊が4つの計8脚ある。会議室かもしれない。
ロイスはきょろきょろと首を左右に動かす。
重そうなカーテンは開けられていて、大きく豪華なフリンジタッセルが存在を主張していた。
だが、日の光は室内を照らさない。
外は明るく中は暗い。不自然に暗かった。
ぐらり、とロイスの身体が傾いだ。誰かに引っ張られた感覚がする。
つ、と視線を向ければ、そこには苦しそうに呻くマッドが倒れていた。
「デグス君、大丈夫か!?」
「だ、だず……」
マッドの声には喀血かゴロゴロと嫌な音が混じっていて耳障りだ、聞いていたくない。
「た、助けを呼ぼう、医局へ行ってヘリング氏を呼んでくるから……」
「ば、ばっで……まっで……」
血の気が引いてくらくらする上半身を何とか動かそうとするが、どうにもうまく動けない。
ぐらり、とまた身体が傾いで、膝を付いた――ぐり、と柔らかい何かの中に芯がある……骨のような、誰かの足をうっかり踏んだ時のような……。
ロイスはゴクリと生唾を飲み、ゆっくり膝を付いた場所を見た。そこには1本の切断された腕が、グネグネと蠢いている。
「……ッ、グォェエエッ」
せりあがるものを堪えられず、その場で吐いた。
吐瀉物は人の形をしている。
「ま、待っでって言で……るどに」
汚物はロイスがよく見知った姿を取った。別れた妻のミシェルだ。
「待ってっで言ったのぎ」
「……み、ミシェ……」
「待ってくれないから、ほら」
彼女が指差すのは、ロイスが膝で踏んだマッドの腕の辺りだ。
うまく呼吸ができない、とロイスは思う。見たくないのに、首は頭を下げさせる。
「……や、やめてく……嫌だ、ミシェル、嫌だ許して」
ロイスの見開かれた瞳から涙が溢れる。
「ナアアアアア」
両手の平に収まるほど小さな赤ん坊が、ロイスの膝に潰されて泣いている。まるで発情期にある猫の鳴き声のようだった。
「許して、お願いだ、ごめんミシェル、嫌だ……違う、違うんだ」
ロイスは膝を退かそうとするのに、動けない。赤ん坊は泣き続けている。
「違わないわ、ロイス。あなたは私たちの赤ちゃんを殺したのよ」
「待ってと言ったのに」
「酔って帰ってきて勝手に勘違いして」
「私を力任せに殴り倒して……」
ロイスの周りを何人ものミシェルが囲んで彼を責め立てる。
「許して、ミシェルお願いだ頼むから……ミシェル」
「――かわいそうなロイス」
項垂れて泣いているロイスに、高く甘い響きを持つ聞き慣れた少女の声と、覚えのある香りがふわと彼の鼻を掠める。滑らかな腕が彼の頭を優しく抱えるように回された。
「……サリー?」
「ロイスは悪くない。悪いのは意地悪をする人だよ」
「意地悪……」
「そうよ、私を突き飛ばしたり、王宮の侍女たちとコソコソ悪口を言うような」
「サリー?」
ぎゅ、とより強く抱き締められて、ロイスの頭は彼女のふくよかな胸に服越しに包まれる。
ふくよか? サリーはもっと小さな……。
「頭が回るだけで本当に失礼な男ね、ロイス・ヤドヴィー」
動揺しながら、緩められた腕の中からそっと上方を仰ぎ見れば、グラスペイン公爵令嬢のソフィアが微笑んでいた。
「……!?」
「ヤドヴィー家は爵位をお持ちでしたか?」
「は、伯爵を……」
「ロイス様は嫡子でいらして?」
「は、はい……」
「ではロイス様が伯爵を継がれるのかしら?」
ソフィアがにっこりと微笑む。目と唇が弓形に大きく歪んでいて、彼女はこんな笑い方を果たしてしたことがあったろうか、とロイスは思った。
「私はね、公爵を継いで女公爵になるのです」
口の中が乾く。開けたつもりはないのに開いていた。舌がパリパリと音を立ててひび割れていく。
「……あ……あ、あ……」
「私は帝国皇族の血を継いでおりますのよ、御存じ?」
断罪だ、ロイスは理解した。これは断罪だ、ロイスのやったこと、やってきたことへの、荷担したことへの。
「ひははは……」
舌が動かないから言葉が出ない。ひび割れて乾燥した舌が開いたままの口からぱらぱらと飛んでいく。
痛みはなく、上手く話せないのがもどかしく苦しい。
「私、帝国の皇帝陛下とも懇意にしておりますの」
謝罪せねば、とロイスがのろのろ頭を下げると声が掛かった。
「謝罪する必要があるのか?」
硬い響きのそれに、ハッと顔を上げれば、至近距離に表情のない人形の顔がある。
「お前はお前の良心に従ったのだろ? 何を謝罪するつもりだ」
人形は、ロイスの頤に指を掛ける。す、と上を向かされる。柔らかな手袋の肌触りに、ぞわ、と背中に這い上るものを感じた。
「お前は断罪を望むのか?」
人形はロイスの頤から指を外さない。人形の瞳は黒い宝石が嵌められていて、きらきらと輝いている。
さらさらとした長いつややかな黒髪は下ろされていて、少し動いただけでさらり、さらりと房で人形の肩から落ちていく様は艶かしかった。
なんという、美しい――。
片手をロイスに当てて固めた人形は、自由な方の手を口元に持ってくる。口でその手に着けていた手袋をゆっくり外す。
人形の動きから目が離せない。昂りが身体の奥からこんこんと湧き出る。
「お前の望み通りに断罪してやろう、我が手で直々にな」
美しい人形はいつの間にか手袋を外した方の手に、細く長いレイピアを握っていた。
刀身が真白く、光を反射する様に眩しくロイスが目を細める。
同時にレイピアはロイスに向かって――。
* * * * *
――アアアアアアアアアッ!!
ロイスの喉から絶叫が出た。
正確には出したつもり、だ。声は出ていたのだろうが絶叫ほどは出ていない。
ロイスは寝具に包まれている。動けなかった。
呼吸は大きく乱れ、肩で息をしていた。心の臓が大きく音を立てていて、身体から飛び出しかねない勢いだ。
目線で辺りを確認する。蝋燭の入った常夜灯がほんのりとその辺を照らしていた。
ロイスは安堵の息を吐き、何度も心に言い聞かせる。
――あれは悪夢だ。現実ではない。
のろのろと起き上がる。さほど広くない室内はけれどロイスにとっては丁度良かった。
――帝国に連れてこられて4日は経ったろうか。あれ以来悪夢に毎晩魘されている。
ロイスは片手で自分の顔半分を覆うと、はあ、とまた大きく溜息を吐いて、ずるずると手を顎まで落とす。
自分で顎に触れて身体がびくりと震えた。
美しい人形の指を思い出して、かあっと顔が熱くなる。
一人寝するにはやや大きな寝具から起き出し、サイドテーブルに置かれた水差しに直接口を付けて飲む。
渇いた喉に、まるで甘味のような甘さで彼を潤す。
ひとつ思い出せば、芋づる式に思い出は引き摺り出された。
ロイス・ヤドヴィーはヤドヴィー伯爵家の次男として産まれた。
伯爵家というそこそこの歴史を持つ家ではあったが、家計は火の車で、子供の頃に貴族らしい贅沢をした記憶はない。
彼の父親が悪徳商人とグルになった新興貴族の口車に乗り、怪しげな取引に関わったのが発端だ。
ヤドヴィー伯爵領は潤沢な水資源と森を持っていた。どちらも生きていくのには欠かせない。
丁度ロイスが産まれた頃、新興貴族の領で建築ラッシュが始まり、豊富な資材となるヤドヴィー領に目を付けられたようだった。
お坊ちゃん育ちの父伯爵は全て独断で、彼らに乗せられるまま契約書にサインをした。
そして、彼らによる搾取が始まる。