リュイ(2
そんなリュイの母の最期は王への怨みしかなかった。
王宮に上がって6年、乳母としての仕事が終わり、クリスタが彼女の手を離れてすぐ、これまで盛られていたものより強いものが食事に混ぜられた。更に肌を焼く海の酸という悍ましい薬剤を掛けられた。
そうなってやっと執着が消えたのか、王妃のしたことが恐ろしいのか王は母の前に姿を見せなくなった。
そして母は床から起き上がれなくなり、出生の秘密をリュイに打ち明けてから間もなく、その命の灯はあっけなく消えた。
王妃は母を決して許さなかったのだ。
そして王は、王妃のしたことを知っていた。知っていて見てみぬ振りを続け、守りもせず母を貪り尽くし、死なせた。
乳母としての仕事が終われば家に戻れる、と希望を持っていた母。
乳母としての仕事が終わっても王の寵愛は奪われたままになる、と絶望していた王妃。
そして口を噤むことしか出来ない自分。
リュイはそのような幼少期を送った。
どんな死に様であっても王宮での出来事、王子の乳母である。
リュイ以外誰も参列しない形だけの葬儀を行い、そのまま母の身体は生家に戻らず、墓地に投げ棄てられるように埋められた。リュイが王家の墓が見えない所に葬ってくれと頼んだためだ。
リュイはそのままクリスタの従者として仕えることになった。
母の生家はリュイの引き取りを拒否したと言う。
行く宛がなくなったことから情けがかかったのか分からないが、とりあえず衣食住に困ることはなく幼心にほっとしたことは強く記憶に焼き付いている。
* * * * *
だからリュイは誰にも、クリスタにすら自分の秘密を話したことはない。
だが、この皇帝は知っている。だから王にわざわざ宣言した。
王妃ですら掴めなかった情報を皇帝は握っているのだと知り、リュイは何に利用されるのかと戦々恐々だった。
だが王国で皇帝の前任従者のニエム、ソフィア公爵令嬢が婚約することを知る。
ニエムの代わりに従者としてスカウトされたと分かり拍子抜けすると同時に、勤まるかかなり不安になった。
ニエムはマッドの腕をなんの躊躇いもなく斬り落とした人間だ。従者というより護衛としての立ち位置の方が強いということも知ってリュイは震えた。
リュイにはそのようなことは無理だ。
帝国行きの馬車は恐れ多くも皇帝と同乗せねばならず、どんどん顔色を失くすリュイを心配したアレクサンドルはその理由を聞くと一笑に付した。
「お前に護衛は求めておらぬ。危険があれば自分で何とかする。ニエムは過保護で煩いのだ。良いか? お前は私の傍で私の世話を焼くことが仕事だ。心得よ」
そう言ってアレクサンドルは馬車の座席に寝転んでしまった。
こんな風にリュイの新たな主に仕える日々が始まった。
これはまだわずか1週間前の話だ。
リュイにしたら既に1ヶ月は経過した気がしている。
帝国に戻ってからは公務だの仕事だのを休んでいるとリュイに説明した。
「なに、これまでが忙し過ぎたのだ。10歳で皇位に就いてからこちら走り続けてきたようなものだ。そろそろ私も世継ぎについて考えねばならぬし、王国から連れてきたのだから子供の1人や2人何とかせねばなるまいよ。その為に1ヶ月ほど休む。仕事は兄弟に任せた」
アレクサンドルはリュイのような格下の者にも聞けば応える気安いところがある。
寡黙で冷徹な印象だったが、話をしてみれば同い年でもあり、明るくお喋りも嫌いではないようだった。
それでも声を上げて大きな声で笑う姿など初見である。
アレクサンドルは長椅子でまだ笑っていた。
「そうかバカ共はまだ夢から醒めぬのか。うむ、仕方ない。今夜は後宮に行くぞリュイ。お前も伽に付き合え。これは決定だ、否やは聞かぬゆえ」
笑いながら、持っていた本をカウチに置くとアレクサンドルは立ち上がった。
「えっ? 伽? えっ」
「誰ぞある! 正餐の後後宮に参る。リュイを伽に呼ぶゆえ準備を」
控えていた侍女たちが数人現れ、アレクサンドルに頭を垂れると、その場から速やかに情報を伝達するために下がって行った。
「リュイ、後宮に足を踏み入れるのは初めてであろう。どのような場所であるか楽しみにしておけ。一旦ここで別れるぞ、では正餐でな」
アレクサンドルは艶やかに笑うと、流し目を残して立ち去った。
後に残されたリュイは困惑しかない。
「後宮って陛下以外の男子禁制では……」
思わずゴクリと彼の喉が鳴ってしまうのは仕方ない。
噂では美姫数千人と言われる帝国の後宮。
それは誇張ではなくファン1世の時代の事で、ここ数代はそこまでではないと話には聞いている。
だが、あの美しいソフィア嬢の母はここ帝国の姫君だ。
だが――。だが、女は怖い。
リュイの喉が鳴ったのは欲望からではない。
女性が恐ろしくて仕方ないからだ。
王妃は彼に女性への恐怖というトラウマを植え付けた。
そしてサリーだ。
サリーは見た目は純粋そうな可愛らしい容姿をしていた。だが、それを逆手に取って次々と男たちを籠絡していたことも見ていたのでよく知っている。
なぜか何の得もないリュイにまで言い寄ってきたのは恐怖だった。しかもなぜか秘密や悩みを知っていて、相談に乗るだとか、目的が分からず得体が知れなかった。
皇帝の場合とは違う。
皇帝はまだ理解できる。調査の手があるだろうと予想できるからだ。
だからサリーをずっと避けてきたのだ。
だが、今夜皇帝と共に伽に行くということは、後宮に入れられたサリーと会わなければならないのだろうか。皇帝はサリーを側室にするのだろうか。そしてリュイに付き合えということは特殊性癖があるのだろうか。
リュイが悶々とあらぬ方向に考えをやっていると、侍女がやってきて、彼についてくるよう求めた。
* * * * *
――なにこれはなに?
リュイは正餐の場で絶世の美女に微笑まれ、対面で食事をしていた。
彼は現在非常に混乱している。
リュイは思い返す。
庭園から侍女に連れられてきたのは衣装部屋。そこには侍女が更に2人待機していた。
そしてもう1人、どこかで見たような顔で線の細い男性が椅子に座っている。
髪の色は黒い――と、言うことは。
リュイがまさか、と思うと同時に男は名乗りを上げた。
「サーシャの兄のリュシアンだ。ルキとでも呼んでくれたまえ。うむ、リュシアンとリュイ、響きが良く似ているのは好ましい。さて今夜はサーシャの共で伽に行くそうだがまずは正餐だな」
(何と隙のない早口だ)
どこか神経質そうなリュシアンは勝手に1人で納得して話を進めていて、呼び掛けても返事をしない。
もしやと思い、リュイはルキ様、と呼んでみた。
「何だねリュイ。その服では不満か? 色か?」
あ、この人見た目ガッチガチだけど多分もっと砕けた人だ、とリュイは悟った。
「サーシャと合わせるんだぞ、アレはどの色にするか聞いてきたのか」
「赤と聞いております」
リュシアンことルキは侍女の言葉を聞いて、ふむ、と腕組をする。
「赤に赤では頭が悪そうではないか?」
「リュイ様の髪色は茶色ですので合わないことはないと思うのですが」
「いっそ黒では? サーシャの色でもあるし」
盛り上がりを見せる侍女とルキのやり取りは、リュイの魂が口から飛び出して、空へぽーんと飛んでいったように感じるくらい遠い世界のものだった。
※BL展開ではありません。
展開が急に暗くなったり明るくなったりします。