やはりどこかで聞いた一節
序章2/4
ソフィアはげんなりする。
「貴様貴様と先程から私に仰ってますが、問題があるとは思いませんの?」
「貴様のような毒婦、貴様と呼んで何が悪い!」
「どくふ」
目を丸くするソフィアに王子が更に言い募った。
「帝国の犬め。毒婦というよりは売女だな」
「……いぬ……ばいた」
流石に王子の乳兄弟が慌てて彼の口を閉じさせようとするが遅かった。
「――そうかそうか、ソーニャは『帝国の犬』か。なるほどなるほど」
背後から聞こえた愉しげな声にソフィアは思わず一瞬天を仰ぎ、すぐに腰を落とすと頭を下げた。
「誰だ! 貴様は!」
「王子! こちらはっ」
「えっ……ステキ」
王子の誰何、従者の制止、ピンクのピンクピンクな台詞とその場の数人は闖入者に軽く混乱する。騎士団団長子息は王子を庇うように前に出た。
「おや、この王子は私の顔を忘れたか? この軍服を見ても思い当たらないとはな」
ソフィアの背後に立っていたのは、先程まで国賓席で寝そべっていた彼の人である。
ソフィアと同じく帝国皇族の血統である長く艶やかな黒髪は高いところで結ばれ編まれていて、前髪は横に流している。
身長は高く、面立ちは中性的、ただ目は猛禽類のような鋭さと光を持っている。どこか芸術品のような作り物めいた美しさであるのに、不思議と醸し出される俗な色気がある。
彼の人は第3王子より少し背が高いために見下ろす形になった。満面の笑みを湛えながら、右手でこぶしを作り左肩に当てる帝国流の名乗りを上げた。
「ファン帝国より、婚約解消の言祝ぎに参った。ファン帝国6世皇帝、アレクサンドル・ファン・メイエットだ。その空っぽの頭に刻み付けておけ」
ソフィアとニエムは、この面倒に面白がって頭を突っ込む皇帝のこの先を思って同時に大きな溜息を吐いた。
* * * * *
ソフィアは帝国皇帝のために用意された客間に通された。
通された先でも皇帝アレクサンドルはカウチに肘を枕に横になっている。
「サーシャ、お疲れのところわざわざありがとう」
ソフィアはアレクサンドルの向かいに置かれたカウチに許可を取らずに腰かける。今は気を許せる身内だけだ、マナーもへったくれも関係ない。
「ソーニャが自分で何とかしようとしてたのは分かってたけど、あれはダメだろ?」
言いながらアレクサンドルはニエムを見て、顎でソフィアの隣に座れと指示した。
「バカは治らぬままだったな。……なあソーニャ、傷心の従叔母殿には申し訳ないが、新たな婚約を結ぶ気はないかい?」
アレクサンドルは起き上がり、目の前のソフィアと落ち着かない様子のニエムを見た。
ソフィアはアレクサンドル、隣のニエムと順に視線を送るとカウチの背もたれに寄りかかる。
「こちらに選択権があるような言い方は止めてサーシャ。――ニエムはそれでいいの?」
問い掛けたニエムではなく、目の前の皇帝が返事をする。
「いいも何もニエムはずっとソーニャを待ってた。誰を宛てがおうとも心変わりせず、ずっとね。もちろん大叔父殿――お父上の了承も得ている。後は君の気持ちだけだ、ソーニャ」
「……ほらね、断れないじゃないの」
「へえ? 断る気なの? ソーニャ。隣のニエムの顔色が忙しいことになってるよ?」
アレクサンドルはふふ、と微笑んだ。
従者のニエムはこのやり取りに顔を赤くしたり青くしたり、今は真っ白で倒れそうだ。
ソフィアはニエムの膝に置かれた手を取るとそっと握った。
「ニエム、待たせたわね。――宜しくお願いします」
その言葉に顔色が戻り、耳まで真っ赤になったニエムと、嬉しそうに微笑むソフィアを見て、アレクサンドルはやっと幼馴染み二人が落ち着くところに落ち着いたとほっとした。
「さて、ニエムが片付いたし新しい従者を用意しようと思うんだけど」
「あら? 私が帝国に行くのではなくて?」
「グラスペイル公爵領は健やかであってほしいからね。公爵を継ぐのは君しかいないんだよ、ソーニャ」
「ああ、それでお父様が了承したのね」
「まあ帝国絡みでなくともニエムは君しか見てないのだから」
「か、閣下!」
「ニエム、婿入りが無事決まったのだから、これからは私を閣下と呼ぶのはやめてきちんと呼ぶように」
「……は、承りました。かっ……陛下」
アレクサンドルはそれに頷いて、ソフィアに尋ねた。
「――で、あの余興は何だったの? 退屈してたからいい暇潰しにはなったけど」
「私もまさかあの場であんなバカをするとは思わなかったのですもの」
と、ソフィアが語りだした話はアレクサンドルか内々に調べていたものより少し強烈だった。
* * * * *
ここフィリア王国の現国王には5人の息子と2人の娘がいる。
一夫一妻制の王国は世継ぎに困らず、夫妻と家族の仲も良い。王国は平和を享受していた。
さて王家が子沢山なのは良いが、嫁ぎ先、婿入り先に困ることになる。
何かあった時のため、男3人には確実に王国に残ってもらわねばならない。
他の王子王女は婿入りさせるなり降嫁させても良かったが、ただでというわけには行かぬ。
そこで政略婚として上3人以外は他国に縁付かせることに早々に決めた。
他国に行かせるほうがより用意するものは増えるが、後々の憂いを考えれば元は取れる。
下手に国内に縁付かせれば、重用をねだられたり問題が出てくると見越した王と王妃、臣下たちの意見がまとまったのだ。
上2人の王子はすんなりと国内有力貴族の娘との婚約が調ったが、問題は第3王子であった。
上2人は未来の王と側で支える王弟として王宮に居を構えるが、第3王子は彼らのスペアでしかない。
歳が近く、王子として入婿するのに差し支えない家はグラスペイル公爵家しかなかった。
なかったが、公爵が首を縦に振らない。
グラスペイル公爵家の現当主の妻は帝国の皇族の姫君だ。
姫君と言っても帝国には後宮があり、側室が数多いるためいわゆる妾腹の子である。
だが正室と側室は歳の離れた仲の良い姉妹――ややこしいがアレクサンドルの祖父が皇帝時に側室の産んだ娘がソフィアの母――であったので現在に至るまで交流がある。
そういった理由から、現グラスペイル公爵は忠誠を帝国に捧げており、帝国側の人間と言って差し支えない。グラスペイルは帝国の拠点であるということだ。
そしてそれは王国も納得ずくの婚姻であった。
あったはずだが、王家としては先の理由により第3王子とソフィアの婚約を押し通さねばならない。
公爵は帝国から婿を迎えるつもりであったし、そのために娘は王国より帝国の社交界に顔を出させていた。
王国から要請を受け、帝国は譲歩という形で様子見をすることにした。
優先すべきはソフィア本人の気持ちだと、彼女の意志を尊重する建前である。
本来ならば友好国とはいえ、帝国に歯向かった犬である。それなりの仕置きと躾をせねばと若き皇帝アレクサンドルは考えた。