ヘリング(1
若き王宮医師として嘱望されていたヘリングは現在、彼の人生において大きな選択を迫られていた。
ゴクリ、と自分の出した生唾をのむ音が大きく彼に聞こえる。
「いやあ、直ぐに、とは言いませんヨ。流石にネ」
緊張に固まるヘリングの前には、開いているのか閉じているのか分からないほど細く、胡散臭い笑顔を湛え、つり上がった目をした男が座っていた。
* * * * *
王国でやらかしたとされ、帝国に連れてこられたが、皆バラバラな場所に収監されたようだが、ヘリングはこじんまりとした小部屋に入れられた。
室内には、生成りのストンとした足元まである長い上衣を身に付けた細目の男――玉と名乗った――が室内に待ち構えるように座っていて、自分の監視だろうとヘリングは思った。
玉はヘリングに粗末な椅子を勧め座らせると、書類を小さなテーブルに置いた。
「ヘリングさん、アナタ切りましょうか」
「……え?」
切ると言われて頭を過ったのは腕を切断されてしまったマッドの姿だ。
「アレを。アレで分かりません? ナニですヨ、男性が男性足りえるシンボルのアレです」
ニッと笑う玉だが、言われたヘリングはたまったものではない。
「それは――無理で……」
「ここはネ、後宮なんですヨ」
ヘリングの言葉を遮り、玉は言う。
「もう一度言いますネ、ここは皇帝のための後宮なんです。アナタ医者と聞いてます。違いますか?」
「……い、いえ、あの、はい」
微妙に公用語と違う玉の聞き慣れない抑揚が気になりつつもヘリングは答えた。
「ン? 医者ですよネ? ……そして今28歳と」
玉は上衣の下に手を入れ、メモ紙を1枚取り出してヘリングに見せた。
「アナタの情報はこれ1枚に収まる程度です。確かにアナタは見目も良い、いわゆる優男ってやつですネ」
じい、と見られてヘリングは落ち着かない気分になる。
「ソノ青い瞳のタレ目は女性に人気がありそうデ。残念ですが、陛下はアナタに後宮に入ることはダメと仰いましたのデ。医者として頑張るのがアナタのこれから生きる道となりますネ」
「……えっ」
「たかだかメモ1枚程度の男に、陛下は興味がナイということですネ」
そう言われたヘリングは、何となくバカにされたと分かって玉をムッとして睨み付けた。
睨まれた方は笑みを崩さないまま、器用に片眉を上げ、皮肉気に言う。
「おや? 陛下に相手してもらいたかったんですか? ――図々しい……本当に図々しいヤツだな」
軽い雰囲気から急に低く威圧感のある声に変わる。
「陛下の縁者に無礼を長年働いておいて何の反省もなく、この後宮の医者として働くことを求められている。その厚意も分からないほど見た目だけのお前が陛下に侍ることが許されるとでも?」
ヘリングの何が彼の逆鱗に触れたのかは分からず、今ほど玉を睨み付けた癖に、今度は怯える。
「話を戻しましょうか。ここは陛下のための後宮。残しておいて良いのは侍る権利のある男だけでス。アナタはその権利がありません。そして、医者としてここにいるならば、切るしかナイんですヨ」
* * * * *
と言うわけでヘリングは大事なナニを切るか切らないか選択せねばならない。
他にも道はあるはずだ。いくらなんでも乱暴すぎる、とヘリングは思った。だが、玉の言葉にその理由はなかったか。
――縁者? 無礼?
ヘリングには心当たりがない。だが思い返せば、パーティ会場でも、その後の恐ろしい蹂躙も。
皇帝の側近く、皇帝の隣にはソフィアという悪魔のような女がいた。
「あの女が皇帝の? 皇帝に何か――」
言ったのかと聞こうとしたところで、ヘリングの身体は衝撃を受けて、床に這いつくばった。
頬に熱い衝撃があり、それが殴られたと分かったのは驚きの後一瞬遅れて痛みを感じたからだ。
「……なっ」
何を、と言おうとしたヘリングは身体が震えた。目の前、視界一杯に胡散臭い微笑みを消した真顔の玉の黒い目があったからだ。
「お前が貴族の色々に疎いのは知っていル。だがお前如きが『皇帝』と呼ぶな。いいか? 後に『陛下』と付けろ。『皇帝陛下』だ。そしてあの女とはソフィア様のことか? ソフィア様は陛下の従叔母だ。ソフィア様の母親は皇族の方だヨ。お前が『女』などと簡単に呼んで良い方ではない」
ヘリングの背に冷や汗が流れる。心の臓は動悸を強く訴えていて、生命の危険を感じる。
ヘリングは己の不勉強を今更ながら後悔した。
それは自分がサリーの言葉のみを信じ、ソフィアを断罪しようとしたことを反省したからではない。
あくまでも、今このような事になっているのはヘリングが貴族のしきたりや仕組みに詳しくないせいだと思ってのことだ。
玉はヘリングからゆっくり身体を離した。彼が改めて椅子に座り直した時には微笑みが戻っている。
だが、ヘリングは身体の震えがまだ止まらない。
「それで、だヨ。陛下は恩情を与えた。後宮で長く働く権利をネ。陛下は現在16歳。御代が永く続くことをボクは祈っているケド、平均で考えて在位を20年としよう……はぁ、こんなこと考えたくもない」
玉は額に手を当て、大きく溜息を吐いた。
「ボクは陛下の退位とともに役を降りる。次の皇帝陛下は男かもしれないシ、女かもしれない。ボクは陛下以外にお仕えする気はないから、医者を用意しなきゃならない。そこでキミだよ、ヘリング君」
返事が出来ないヘリングを無視して、彼は話を続けた。
「何度説明させるんです? 仮に次代が男子であれば後宮で働くためにもアレは不要。皇帝陛下のための後宮だかラ。女子であってもキミには皇帝陛下に侍る権利は死ぬまで……いや死んでも一切ない。刻み込めましたか?」
ヘリングがぶんぶんと縦に首を振って見せると、玉は満足気に大きく一つ頷いた。
「……あの、おっ王国にはかえ、帰れないのでしょうか」
「全然分かってらっしゃらなくて、驚きを禁じ得ませんヨ」
ヘリングからすれば、ナニを切るなんてとんでもないことだ。後宮に仕えるつもりもない。皇帝に気に入られるとはどう言うことだ。軍人にままあると言う男色好みか。
王国には同性同士の睦事や恋愛に対して嫌悪感というよりも忌避感が強い。王国の一夫一妻制度からも分かるように、わりと国民の趣味嗜好に対して厳しい国だ。
だがそれは国が制度で人を管理しているだけで抜け穴を見つけては好きにやっている金持ちはいる。
金は全てを黙らせることができるからだ。同じく権力も。
この2つがあれば人の心を変えることも出来る。
金と権力、それを得る為にヘリングは王宮医師になったのだ。
貴族でもないそこらへんの庶民が彼らより上に立ち、輝くために死に物狂いで勉強し、他人を蹴落とし、大学でもコネを作って上手く立ち回ってきた。
どんなに庶民だからと嫌がっても王宮医師。
貴族からどんなに内心で蔑まれても、表向きありがたいとヘリングの診察を受ける。
貴族という生まれつきの後ろ楯も権力も持たないが、ヘリング自体に利益があると認めた王族はじめ貴族たちから庇護を受け、輝かしい人生を送るはずだった。
なのに、何が悪くて帝国で、しかも後宮などと言うヘリングに旨味のない場所に押し込められているのだろう。
玉の温度を一切感じない笑顔を見ながら、ヘリングは己の不幸の理由を見つけようとしていた。