ハレムの主(1
※やや下品な表現有
皇帝アレクサンドル・ファン・メイエットことサーシャ13歳は走り出す勢いで父のいる謁見の間へと進んでいた。
無駄に広く長い廊下を苛々としながら、ファン帝国での未婚女性の正装である長袖のガウンコートを翻し、その下に履いているこれも裾の広がっているパンツを衣擦れどころか風を生むようにわざとはためかせて歩く。
その後ろから侍従のニエムと侍女ベラが何事か言い合い、それぞれ若き皇帝を追いかけていた。
ベラは主の裾捌きが淑女足りえず、それにぶつぶつ言い、聞き咎めたニエムが主を庇ったところ、男はこれだから女はこれだからとお互い生産性のない言い争いをしていた。
10歳で皇帝となったが、その年齢で甘く見られたのかやれ彼方の国が帝国に反旗を翻しただの、此方の国が帝国に向けて蜂起しただの、その度に乗り込んでは制圧するという手腕――物理的な実力行使のみだが――を見せ、大陸の覇者の名に相応しく一部からは黒い悪魔だの、小さな黒鷲だの黒薔薇だの好き勝手に呼ばれていた。
侍従のニエムは『戦に強いから陛下というより将軍閣下と呼びたい』という訳の分からない理由からサーシャのことを閣下と呼ぶ始末。
だがサーシャはそんな些末事はどうでもいい。
彼女が苛々している一番の理由は、父に呼び出されたからでも長い廊下を行かねばならないことでもない。
――この服装だ。
皇帝に指名される前までは、今着ている正装を着用していた。
サーシャは歴とした女子だ。だが、皇帝となってからは『男に見られていた方が何かと役立つし、サーシャには軍服のが似合うよ』という考えているんだかいないんだか把握できない父、先皇の言葉で男性用の軍服か普段着しか身に付けていない。
ところが今日は張り切った侍女や姉妹たちがサーシャの部屋にどよどよと押し掛け、逃亡を阻止され押さえつけるように着替えさせられた。
ついでに化粧も。そのためサーシャは癇癪を起こす一歩手前だ。サーシャは化粧やドレスや女性向けの正装が決して嫌な訳ではない。好きな人の前でだけ女としてアピールしたいという、見た目と男前な性格に反した乙女心からだ。
なのに、母である皇太后がこっそりと先ほど教えてくれたのは『側室候補来てるから宜しくね』というものだった。
それは受けられない。サーシャには片想いの相手がいて、今はその相手をどうやって帝国に持ち帰ることができるか考え中である。
「話が違うぞベラ! 正室も側室も私に一任するという約束であったろう!」
「えー、でもぉ、陛下が陛下に見合いさせるってぇー」
「せんぞ、見合いなど」
「でもぉ、後宮に入れるって陛下がー」
「……は?」
サーシャが立ち止まる。
声に温度が感じられず、ニエムとベラは主からやや距離を取った。
後ろを振り向かぬまま、サーシャはふむ、と何事か考え出した。
「――よし、分かった。ニエム、剣を持て。落としてしまえば宦官として使えよう?」
「いや、ダメでしょう閣下!」
「陛下あ、良いとこの子の息子が使い物にならなくなるのは問題になりますうー」
ニエムは切り落とされるモノの代わりとばかり悲鳴のように叫び、ベラは主をやんわりと止める。
「ではどうしろと? 私は皇帝になる時に言質を取ったのだぞ? 婚姻と後宮は私の好きにすると。人選に誰の指図も、たとえ父から祖父からであっても受けぬと」
「それがあー、バリス様があ、兄なら良いだろうってえ」
聞いたサーシャは、ぎり、と歯軋りをした。
「あの長兄め! 皇位争いもせず、すんなり譲って大人しくしているのはおかしいと思っておったのだ!」
サーシャには兄弟姉妹が多い。
後宮があるために側室が多いせいだ。
側室が産んだ子はどれだけ有能でも皇位には就けない。なぜなら後宮に上がり側室になるということは奴隷という身分のため、後ろ楯は許されず皇位継承権は最初からないのないない尽くしだ。
その代わり衣食住には困らない。側室の子供は職にも嫁ぎ先にも困らない。良い意味でもないない尽くしである。
しかも奴隷と言っても後宮と言えば美姫の集まり。帝国の後宮出身というだけで女としての箔が付く。ましてそこで運良く皇帝の手が付けば手当てが貰える。余程の事がない限りほぼ一生。
更に子供を授かれば、下賜される時など引く手数多となる。無事に子供を身籠り、健康な子を産むことができるというのは帝国だけでなく大陸において非常に重要なことだ。
そして後継争いが起きぬように、正室の子供だけに継承権がある。万が一の時には特別措置として側室の子を正室の養子扱いにすることも認められているが、帝国の長い歴史においてそれが発動されたことはない。
これまでは血族内での皇位争いがあったからだ。
王に男としての能力がないなら、その兄弟姉妹に(皇帝と正室の血統の)。おじおば、いとこにあたるまで。
帝国の皇帝の血は、ファンの祖と呼ばれる初代皇帝の血はかなり薄い。
途中何度も簒奪等の問題が起きる度に傍系が立った結果だ。
サーシャは6世を掲げているが、それは「メイエット」の血による皇帝として6代目なだけで、初代から数えるともっと歴史がある。
およそ800年はあろうか。途中、皇帝を名乗る血族が代わる度に暦を変えてきたので、現在のメイエットによる帝国歴は99年となる。
このような帝国の歴史の中で、サーシャの皇位継承は稀な無血の継承となった。
これまでは表向きは平和でも、裏では必ず同族の血が流れていた。
女帝を厭わないので、兄弟だけでなく姉妹ですら敵になる。普段飄々として掴み所のないサーシャの父ですら、その座に就く前に数人葬っている。
そしてサーシャには上に兄が3人いる。
側室の子供たちも兄弟姉妹と呼んでいるためややこしいのだが、継承権のあった上3人はサーシャが皇帝となった3年前にそれを完全放棄した。なので皇帝の冠名であるファンを名乗ることが出来るのはサーシャだけである。
長男のバリス・メイエットは帝国軍人で、皇帝に興味はないと辞退。
次男のダニール・メイエットものんびりと好きなことをして生きたいと辞退。
三男のリュシアン・メイエットは妹の側で日夜補佐したいと皇位を辞退し、宰相となるべく日々政務を勉強中だ。
この中でバリスが一番皇帝に近いと言われていた。
祖父に似て豪放豪快豪胆という豪の者だ。兵たちから慕われていて人望もある。
その為あっさり皇位を手放したのがサーシャも不思議で仕方ない。
いくら先皇の指名だろうと、よくわからない占術師の託宣だろうと、そんな決定は彼の武力と人望を以てすれば覆ったであろう柔いものだ。
いまだこの長兄を担ぎ出そうとする者もいると聞く。ましてサーシャは武の心得があり、戦の平定も称賛されてはいるが1人で成し得た事でもない上にまだ13歳。十も歳上の兄とは経験も力の差も歴然だ。
兄は人の裏を掻くような性格ではないが、相談役が付いたならば話は変わる。そのような者がいるとは聞いていないが、サーシャの側室として彼の息の掛かった者を送り、いずれ来る予定の正室を排除する可能性もある。となれば世継ぎは絶望的――サーシャは今のところ、夢見る乙女らしく正室にのみにしかその身を預けないつもりなので。
サーシャはもし兄がそのつもりなら絶対許さない、と俄然ヤル気モードになった。
ニエムは、まだサーシャの想い人は正室予定でしかなく、その為に動かねばならないこと、他国からも推されて来る正室側室候補――全て女性だが――を捌かねばならないことのあまりの面倒臭さに溜息を吐いた。
ベラは良い男が選り取り見取り、後宮の主なのだから好きに遊べば良いのに。と、これもまた真面目な主に溜息を吐いた。
何にしろ、黒い悪魔だの何だの言われている上に見目も涼やかで冷酷にも見える皇帝が、絶賛初恋拗らせ中とは誰も思うまい、ニエムとベラは、はあ、と大きく息を溢した。