第18狂・少女の覚悟、隠された思惑を知る時
悪いことをした事をした者は、天罰が下る。
なのに何故、自分自身はのうのうと生きているのだろう。
雪崩れ込む様に
地下室への階段をかけ降りて、部屋の戸を閉めた。
御影家の思惑と薫の利害が一致したに過ぎない。
戸を閉めると項垂れる様にしゃがみ込んだ。
憂いた眼差しを伏せながら透架は己の身の程に呆れている。
期待なんてしない。何も望まない。
“ただ腑に落ちた”という感情を覚えて、
透架は頭を片手で支えると、乾いた嘲笑が音も無く零れ落ちた。
(何処かで解っていた)
追放したとはいえ御影家は血筋の為に、
薫は、自分自身の息子の将来の安泰にする、操り人形として透架を手離さない。
御影家と澁谷家は透架という少女と金銭関係を通じて、利害関係人が一致していたのだ。
其処には一欠片の情も発生しない代わりに
自分自身を追い出したかった御影家、金銭に目が眩んだ澁谷薫。
笑える話の様で笑えない。
どす黒い大人が考える様な浅はかな脆い関係。
そんな利害関係を軽蔑に見詰めながらも、
渇いて凍り付いた心から湧いてくる感情なんてない。
(誰かに踊らされるのが、
穢れた曰く付きの娘に相応しいと言うのならば、演じましょう)
操り人形のふりをして、
この心の中の思惑を、思案を見透かされないのではあれば、
透架は一向に構わない。
(ただあなた達、盲点には気付かないままね)
自分自身の事ながら、卑怯だと感じる。
この燻り続けて歪んだ心を抱えながら、
実家から追放され、この館で女主人の操り人形として
生きるふりをし続ければ、欲望と利害関係に
盲目的な大人は小娘の企みに気付かない。そこが盲点だ。
慎ましやかなノックが聞こえた。まだ言い足りなかったか。扉を開けると、扉の隙間から眩しい程の光りが目に降り注いで
思わず透架は目を伏せた。
「………宏霧さん?」
宏霧が茫然自失と、
ドアの淵に死の番人かの如く、突っ立っている。
この青年は気配を消して修羅場参観する事が得意義だ。
「早く戻って下さい。薫さんに怒られてしまいます」
「………………」
原則、曰く付きの娘が居る地下室の物置部屋には
近付くなと宏霧は薫に忠告されている筈だ。
けれど不意に宏霧は呟いた。
「君みたいな物好き、初めて見た」
「…………?」
透架は、淡く首を傾ける。
その読めず掴めない態度は余裕綽々なのか、
内には悲観に暮れていたのかは分からない。
「御愁傷様だね」
「……………」
透架は首を傾ける。
(この家に来て、薫の忠犬になって)
「何故、君は自ら
哀れな泥の中に身を浸すんだ? 無様とかは思わないのか」
「……………」
己自ら、哀れな泥の中に身を浸す。
嗚呼、そう表現もあるのか。
傷付く心さえもなかった。感性を喪った心は
枯れて凍り付いて、感情は何事にも揺れる事はない。
宏霧からはそう見られているのか。
嘲笑われているのは百も承知で、
自身が求めるものが、場違いだとも分不相応だとも
悟っているけれども、不器用な自身にはこの選択しか出来ない。
この心が見透かされないのならば、透架は人間関係等、全てがどうでもよいのだ。
(………優雅な事で)
ただ宏霧が優雅に構えている事は悟った。
自分自身に向ける価値観も思いも。
(それを知った所で現状は何も変わらないのに)
宏霧にとって、透架は不思議な生き物でしか見ていない。
物言わぬ透架に
宏霧は、すっと畳まれたタオルを差し出してきた。
透架は首を傾けながら、宏霧の方へ目線を移す。
「もう一回、着替えて、お風呂に入ってきて」
「……………?」
「風邪を引くから、早くしてくれ」
嗚呼、そうか。
(この人は煩わしい事が大嫌いだった)
宏霧は面倒事や煩わしさをとても嫌う。
宏霧は透架の身に何か起こった時に責任も取れない事を
知っているからこそ御影家へ顔向け出来なくなる事も。
慌ただしい日常の中で忘れていたけれど、
御影家の子女である身分を忘れていた。
それを懸念しているだけなのだ。
薫は、目先の欲望しか見えない。
透架は生きる為に、将来の為の思惑しか見えない。
案外、この館で焦りを抱いているのは、この青年なのかも知れない。
透架も、薫も、外面を保っている。
これは、優しさか、同情なのか。
どちらにしても
御影透架になってから、初めて優しさを受けたのだろうか。
けれども穢れを知らないお坊っちゃんには、白々しい意図はなかった筈だ。
大人から注がれるのは、
罵詈雑言と軽蔑する眼差しを受けた事しか記憶にない。
最初は傷付いていた筈の心も感覚が麻痺して慣れてしまっている。それが当たり前で自身に相応しいものだと思い生きて
きたのだから。
(私は、それらを受け取ってもいいの?)
優しさなんて。
身に余る程のものだと理解している。
こんな純粋無垢な優しさを受け取る権利は自身には発生しない。
こんな穢れを背負った身分で。
一通り、洗髪や洗顔を済ませた後、
不意に洗面所鏡に向かって顔を上げた。
物憂げな顔付き、虚ろな双眸。その下には紫色の色濃い隈。
(この人、だれ?)
馬鹿な事を考えた。
自分自身だという事は分かり切っているのに、鏡に映った女は不気味で仕方ない。
純架の存在が無ければ、
とっくの果てに自分自身の顔立ちも忘れていた。
けれども、純架と自身を比べるのは、失礼じゃないか。
姑息な自身を嘲笑った。純架とは何もかも違う。
罪のない純粋無垢な少女とは。
もし、あの時、
薫が浴びせたモノが水ではなく、毒薬ならば、良かった。
天罰が下った様に苦しみ抜いて悶えて気絶すればいいのに。
誰から何を、何とも思われても、構わない。
純架を救う為なら。
「母さん」
「宏霧ちゃん」
ソファーに横たわる薫の前に宏霧は立ち付せて、
横たわり煙草を吸い、ちょうど吹かした煙草の灰を
灰皿に押し当てている所だった。宏霧を見た途端に薫は猫撫で声で、宏霧にすり寄る。
「あの小娘、そろそろ追い出してやくれないか?」
「………透架の事?」
宏霧の眉が微かに揺らぐ。
対して薫は怪訝な表情を薫は浮かべた。
「目障りなんだよ。この家は相応しくないでしょ?
なんで曰く付きの子、母さんは置いてるの?」
(………養育費が無くなる。あたしの自由が……)
真っ先に思ったのは。
透架の事なんて良く思っていない。
御影家に貰った手切れ金に目が眩み、養育費を貰える事に目を眩んでしぶしぶ透架を引き取ったに過ぎない。
透架は嫌いだけれど
毎月、御影から振り込まれる金銭を思うと惜しい。
「思い返してみなよ。
透架が来てから、家には不幸ばかりが舞い込んでいるじゃないか。
「母さんだって恋人にフラレてばかりだし、
僕はこんな屈辱的な思いばかりを味わっている。悲惨だよ」
男の声色ならば、呼吸をするように解る。
実の息子から冷たい言葉を浴びせられている事を悟った刹那に薫は駆け出していた。
「あと、数年だけ我慢して頂戴!!」
すり寄る様に掴まれた腕。
振り返ってみると薫は肩で息で呼吸を、腕を掴む力は尋常じゃない。
「ママだってあいつは、大嫌いよ。
でも、でもね、あと数年、辛抱して頂戴。
あいつがいるから、貴方の将来の安泰は約束されているから!!」
「は?」
「あの子に医学を学ばせて、
医学部に行って貰って、国家試験をパスして国家資格を取得して貰う。
それで医師免許は宏霧ちゃんのものになるわ。
それで用済みになったら、奴を追い出すから。
透架が医師免許を取得したら、
宏霧ちゃんは晴れてお医者様になれるのよ」
何を言っているのか、分からなかった。
透架を引き取ったのは自分自身の替え玉をさせる為?
他力本願でもしようとしていたのか。
全て腑に落ちた。
透架を曰く付きの娘と罵りながらも、この家に置いている事。
透架の将来について言及しなかった事も全て。
(………俺の為に。あの子は泥に浸っている?)
「それは、僕を信頼していなかったって事?」
「違う!! それは絶対的に違うの!! ………親心よ。
貴方に苦労させなかった。だから、あの曰く付きの娘に任せたの。
宏霧ちゃんも知っているでしょ?
あいつは無駄に頭がいいから。 あいつに全てを任せて苦労させればいいのよ!!
その間は、貴方は気楽に過ごしていればいい。
面倒事はあの曰く付きの小娘に任せて……宏霧ちゃんはパパの後を継がなくちゃ」
薫は肩で息をしながら捲し立ててる様に、そう一気に告げる。
息子が軽蔑している眼差しで見られているとも知らずに。
母親は、薫は、頭が悪い癖に、巧妙でずる賢い。
医者の妻になりたいと、父親の前妻が子供が出来ない体なのをつけ込み、不倫の末に宏霧を身籠った形で奪った。
前妻を追い出して。
小さい頃から、英才教育を施されてきたけれど
宏霧は真面目に取り組んでも、下手な言葉や情熱で
母親の横槍で失敗した事も数知れない。悪意はないが、
地頭からして何処か抜けている母親の心ない言動に
軈て、宏霧は挫折した。
(疑問には、思っていた)
医者になれ、と押し付けられないこと。
特に透架が来てこの数年、
言われなくなった事が不思議で仕方なかった。
まさか薫が巧妙で姑息な手口で、裏で糸を引いていたとは。
「………幻滅したよ」
絶句した中で、唯一で込み上げた言葉は、それだった。




