ナズナの十字架

封じられた過去____form“透架”

第14狂・少女にとっての“人質”

「あんたを引き取ってやったんだ、感謝なさい」

「……はい、ありがとうございます」

妹は、純架は、人質に取られている。

御影家に、澁谷家に。

薫は、これよとばかりに、純架の事を持ち出した。

『あたしは純架の居場所を知ってるの』

『“あんたが少しでも逆らったら、御影に言いつけて、純架に害を加えて貰うから』

薫の口癖はそればかりだった。

最初の頃は素直に信じていたが、

それらが全て出任せだと気付いたのは中学生の頃だ。

透架の唯一の弱みは“双子の妹” “純架”というワードと、存在感だった。

それさえ使いこなせば、

透架は逆らわないと味を占めてなめきっている。

純架という名前を口にすればなんでも従順になるとでも思っている。

けれども薫が純架に本当に手を出す事はないだろう。

澁谷家は単なる交流がある家で、

御影家の子女には、手出しは出来ない。

それに事件後、透架の前に現れた薫には純架の病状等、知る余地もなかろう。

「あんたは女中だよ。家事をしな」

本当に医者の夫人だったのだろうか。

そう疑わせる程に薫は品がなく感情的で、

すぐに思い通りにならなければ、キレては泣き喚いて、いつまでも駄々を捏ねている。

『あたしは悪くない。あいつが悪いのよ！』

口がとてつもなく悪い。

感情的な人間が、

成長のない女の末路はこんなにも見苦しいものか。

獣の如く感情的になる事は絶句する程に欲望を剥き出しにしている。

(無自覚で、軽率で救い様のない、哀れな人)

こんな大人にはなりたくない、と透架は思った事は覚えている。

澁谷家は酷い有り様だった。

未亡人となった薫は、傍若無人のホスト狂いと化し、何股もかける程に恋に生きる女。

恐らくは結婚前は恋に情熱的な人物だったのだろう。

いつも薫は、きつい酒と香水を漂わせ、泥酔して帰ってくる。

髪についた煙草の香り。

慣れない煙草やお酒の香りを嫌と言うほど

味わってしまって、軈(やが)てそれはトラウマとなった。

家事炊事は一切やらない。

いつしかその役割は、透架が担う事になった。

何かに貢献する事で、御影家の顔色を伺って逆鱗に触れぬ様に必死だったのも一律あるだろう。

純架さえ、安全に過ごしていればいい。

自分自身はどうなってもいい。

まるで自分自身は、澁谷家にきた家政婦のようだ。

それでも“曰く付き”の自身の面倒を見て貰っているからと

粗雑に扱われる事も軽蔑され続ける事は当たり前だと思う。

犯罪者の娘を、曰く付きの娘を、拾ってくれる人間そうそういない。

実家ですら追い出されたのだから。

また純粋無垢だった透架は、恩返しだと考えて、

健気に透架は従い、家事をこなした。

そして歳を重ねる事に疑問に思った。

ホスト狂い・交際費にかける女の金の出所はどこか。

薫は苦労を嫌い、自分自身さえ満たされたい女だ。

散財しても散財しても、金銭的に困っている所は見た事はない。

営業の為の甘い言葉は常套句だ。

それを自分自身の為の甘い蜜だと思い込んで

自らが欲している言葉を安易に囁いてくれる沼にどんどん嵌まり虜となっていたのだ。

夏風が撫でる新緑の葉を見詰めながら、透架は思っていた。

『絶対に、此処に通いなさい』

中学入学を視野に入れた頃。

薫は拍子抜けする様な言葉と、透架のレールを決めた。

薫が提示したのは、府内随一の進学校のパンフレット。

医学を専攻する志願倍率がとても多い有名な私立の学校。

『宏霧ちゃんの為に、

医学部に進学する事、医師になる事になる為よ』

何かの企みを含んだ口角が上がる。突拍子もない話だ。

薫は何がしたいのだろう。

(宏霧の為ならば、何故、自身にパンフレットを見せる？)

透架は、パンフレットを持ちながら遠慮がちに尋ねた。

宏霧(ひろむ)。

澁谷 宏霧。薫の一人息子。

透架と同い年で、控え目で物静かな青年だ。

医師だった父親の跡を追って彼も医師になるのだろうと思っていたが。

『………私が、何故です？』

『まあ口答えするなんて生意気ね。

宏霧ちゃんに苦労させるなんて耐えられないの。

宏霧ちゃんが傷付いて大事な将来が閉ざされたら人堪りもないわ』

煙草を吸い吸い込んだ煙を吐きながら、愉しげに告げる女。

女として生きる薫にとって、唯一自らが溺愛する一人息子。

家庭も顧みないわりに、宏霧への執着と依存は郡を抜いている。

宏霧が傷付く事を人一倍、恐れ、

宏霧には猫撫で声で接してご機嫌を取り、媚を売るのだ。

(これが、親が子を思う気持ちなのだろうか)

透架自身には、そんな経験なんて微塵もないけれど。

形は少しは違えどそれが子を思う母性愛から来ているならば。

透架が色々と考え込んでいると、

茫然自失と佇む透架に対して、灰皿に煙草を押し付けると

理解力のない馬鹿な小娘、と嫌味を一つ挟んだ後、

呆れた表情を見せた後ににやりと薫は不敵な微笑を受けて言葉を続けた。

『替え玉として貴女が学ぶのよ。

そしてその権利を得た時には宏霧ちゃんに譲ること。

それが貴女が、澁谷家に居られる条件よ！！』

滅茶苦茶な話だ。

透架はそう思っていた。

可愛い可愛い一人息子に葛藤も苦労もして欲しくない。

簡単に置き換えれば、透架が医師免許を取得し、

それを宏霧に譲る。

(要するに、私は影武者という事なのか)

最初こそは、嫌だと思った。誰かの身代わりとなる事。

誰も信じられないと思ったあの日の事も

不信感を持つ他者の操り人形になる事を。

物置小屋の自室に戻り、膝を抱える。

犯罪者の娘、曰く付きの娘に逆らう権利はないだろう。

だが、もしも断って跳ね返してしまえば、双子の妹に害が及ぶのでは……。

群青色の夜の帳の中で、夜が明けるまで深々と考えた。

最初は嫌悪感を抱いていた感情も

軈(やが)て、次第に透架の中で目論みと利害が生まれた。

(もし私が医師となれば、

純架の置かれている現実が知る事が出来る？)

彼女が背負う病も、置かれている現実も。

医師となれば、”今“の純架を知る事が出来る。

もう何も出来ない未熟な小娘、という殻を脱げるのではないか。

医師になれば、御影家も何も言わない。そして、

(……純架の為に、)

それが、自らのの背負う冷たく十字架を背負いながらも

それが、妹の為に尽くし生きる事。それが妹への贖罪だと思い知った。

そして思ったのだ。この心臓を譲る事が、本当の贖罪なのだと。

元々、聡明で優秀であった透架は、進学校の志願倍率を勝ち抜き、その入学試験の優秀な成績から特待生として入学した。

特待生を目指したのは透架自らの事だった。

学費の事で嫌味を言われるのが、嫌だったからだ。

女の陰口は陰湿でねちねちとしていて執念深く、あからさまで、

何よりストレートだ。

特待生枠になれぱ、学費免除等が約束される。

薫の願いや意向、そして自身の利害は叶えた。