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Ⅱ-Ⅳ 彼女の弱音と彼の葛藤

 * * *


 唐突に、枕元の携帯電話(スマートフォン)からインペリアル・マーチが流れた。

 ぼんやりしていた一海はぎょっとする。



 滅多に掛かって来ない音声電話、しかも登録されていない番号からの着信時にのみ流れる設定のメロディだ。前回鳴ったのは、一年以上も前の間違い電話だった。



「……もしもし?」



 こんな時間に……と、恐る恐る電話を受ける一海の耳に、快活な笑い声が響いた。



「一海くぅん? 元気ぃ? 今何してたぁ? おばちゃんだよーう。寧々おばちゃん」



 酔っているような口ぶりで当然のように話し出した寧々に、一海は困惑する。


「寧々さん? いつの間に俺のスマホ登録したんですか?」

「そんなの、きみのスマホからあたしのに掛ければ一発じゃん」


 きゃはは、と笑い声が続く。



「あの、プライバシーって――」

「なーい。甥っ子にはプライバシーなんて存在しないのだよ。はっはっは」

「そんな……はっはっはじゃないですよ無茶苦茶ですよ、言ってることもやってることも」



 チェシャーに着いてから、携帯電話はずっと尻ポケットに入れていたはずだ、と記憶を辿る。その前だとしたらメールを見せた、いや、寧々が勝手にメールを見た時くらいしか、手放した覚えがない。



「あ、ちなみに今日チェシャーで会った()()ちゃんにもプライバシーはないから、お揃いお揃いぃ。ねっ?」


「そういう話じゃないでしょう。何かわいい感じで言ってるんですか、トシ考えて下さいよ」



 チェシャーの店主、月光が寧々を疎ましく思っているように見えたのも、一海の気のせいではないのかも知れない。




「――今、なんか言ったかなぁ?」


「あの……いえ……えっとじゃあそれは撤回しますけど」

「当たり前でしょ。あたしは若いのよ!」

「自分で若いとか言うところが既に――」



「な、に、か、言、っ、た、か、な、ぁ?」



「あーもうなんでもありませんっ! ってか誤魔化さないでください。寧々さんが若いかどうかじゃなくて俺のプライバシーの問題でしょ!」


「えー、だからあたしは若いんだってば! そこ重要! 今度のテストに出るからね!」



 酔っぱらい相手に、倫理観を説いても無駄なようだ。一海はため息をついた。



「意味わかんないですから。ってか寧々さん、そもそもなんの用事で掛けて来たんですか?」

「あー、そうそう。それなんだけどねぇ」



 寧々の声のトーンがやや落ち着いた。しかしやはり酔ってはいるらしく、多少呂律が回っていない。



「んーとさぁ、つまりあれだ、あたしのことをきみの母上に話したのかなーって、ちょっと気になってね。いや、ちょっとだけだけど」



「あぁ……」――そういうことか。


「いえ、訊きたくないと言えば嘘になるけど、やっぱ訊きづらいっていうか、ですね」



 自分が気になるだけなのか、一海に対する気遣いなのか。そこまではわからない。だが寧々が電話して来たとりあえずの理由が判明しただけでも、一海は気が楽になった。



「だよねー。そうじゃないかとは思ったんだけどさー、一応ね。ほら、ゲコちゃんがそういうのやたら気にする子だから」


 寧々の口調は他人事のように軽い。しかし一海は言外に、やはり寧々は気にしているのだろうと感じた。



「そーいやさぁ、ねぇ、一海くんって今から出て来られたりしないかな? 今日はゲコちゃんばっかり喋ってて、あたしとちゃんと話できなかったしさぁ」


「いや、今何時だと思ってるんですか。無理に決まってるでしょ」


 答えながら、一海は時計を探す。机の上のデジタル時計の表示はもう少しで二十二時になる。



「えー? 最近は男子でも門限があるのぉ?」

「そういうんじゃないけど。大体、うちから自転車で寧々さんの事務所までって一時間近く掛かるじゃないですか」



 片道だけならまだ、その距離をこれから往復すると考えたら、出掛ける気には到底なれない。



「あー、事務所じゃないよ。行きつけの店でひとりで飲んでるんだけどさぁ、つまんなくって」

「余計駄目じゃないですか。俺高校生ですよ?」


「大丈夫大丈夫、バレないってぇ」

「バレるかどうかじゃなくて、酒なんてまだ飲めないですよ」

「誰もお酒飲めなんて言ってないわよぉ? ジュースでも飲んで話相手になってくれればさぁ」



「あ……で、でも」


 ――そこまで言うのなら……どうしてもと言うのなら。一海は首を伸ばして、また時間を確認する。


「あはは、うそうそ。んー、寧々さんたら高校生相手にちょっと大人げなかったねぇ。今日はなんだか絡み酒かなぁ?」



 一海は段々心配になって来た。


 初対面の一海に大荷物を運ばせた寧々と同一人物とは思えない。一海の記憶では、もっと押しが強くて、ずうずうしくて……いや、ひょっとしたら、少し引いて様子を見るという作戦なのかも知れないが。



「あの、何かあったんですか?」



「ん? なんでそう思うのかなぁ?」

「いや、よくわかんないけど、大人が酒飲んで誰かと話したくなるのは、何かあった時なんじゃないのかなぁって」


「ふぅん……一海くんのお父さんがそんな感じ?」


「いえ、父はあまり酒が強くないので。でもそういう話なら聞いたことがありますよ。昔、母さんが――あ」



「ん、いいよ、聞きたいから話して」



 心持ちトーンダウンしたような寧々にうながされ、一海は思い出しながらぽつりぽつりと話をした。


 そのエピソードは、父の(けい)()が懐かしむように教えてくれた一海の母親、寧々の姉の話だった。



「そっかぁ、お姉ちゃんもなのかぁ……」


 つぶやく寧々の声は、やはり昼間聞いた明るく強気なトーンとは正反対の、寂しげに甘えるような響きで一海の耳に届いた。



「あの、寧々さん、俺やっぱりそっち行きましょうか?」


 一海の口からはついそんな言葉が出る。



「あはは、何さぁ。ひょっとして、あたしが弱ってるかと思ってキュンとしちゃったぁ? そんなんじゃすーぐ女に騙されちゃうよ、一海くんはぁ。お子様はそろそろ寝る時間だよん。じゃあ、電話付き合ってくれてありがと、またねぇ」


「あの、ちょっ」



 一海が止める隙もなく、寧々は一方的に喋って電話を切ってしまった。



「別に……キュンとしたわけじゃないけど。だって相手、寧々さんだし――叔母さん、だし」


 切れた電話に向かって、一海は言い訳する。枕元に放り出して、そのまま自分も寝転ぶ。



 確かに、叔母だと知らなければ、年上女性からの誘いには多少心が揺れたかも知れない。そんなうっすらした自覚も、あるにはあった。


 しかしそれよりも、自分の母親のことで寧々の気分が落ちたのなら、どうにかして慰めなければいけないという気持ちの方が強い。



「母さんの昔のこと……父さんにもっと聞いておけばよかったかなぁ。今更聞くのもやっぱ――」


 語尾はなかば吐息のようで、ほどなくして静かな寝息に変わった。


 * * *


 夜半過ぎ、一海は雨音で目を覚ました。

 何か夢を見ていたようだが内容までは思い出せなかった。ただ、正体のわからない漠然とした不安の影が、胸の中に重く残っていた。



 月光に言われた、『大きなトラブルに巻き込まれる』という言葉が、無意識に気になっていたのだろうか。



 携帯電話がメールの着信を知らせてちかちかと光っている。部屋の灯りは消えていた。李湖が消したのだろう。

 ぼんやりとしたままメール画面を開くと、寧々からのおやすみメールだった。件名にも本文にも絵文字を大量に貼り付けられていて、いかにも女性からという印象だ。



 返信しようかと思ったが、メールが届いたのは電話から間もなくの時刻だったようだ。あれから四時間近く経っている。


 すぐに返信がないことで、寧々は、一海が怒っていると思っていないだろうか。『寝ていた』と返信で伝えるべきか……一海はメール本文を入力し始めたが、途中まで打ち、着信音で寧々を起こしてしまうかも知れないと考え直して結局やめた。



「……ま、今日初めて会ったんだし、急ぐことでもないのかな。っつか、俺、何話せばいいのか正直わかんねえし」


 自分に言い聞かせるようにつぶやき、携帯電話を脇に置く。



 窓を開けたまま寝てたため、部屋の中にはすっかり雨の匂いが充満していた。


 何も掛けずに寝てしまったせいなのか、少し肌寒さを感じる。

 ふと自分の二の腕に触れた時に、思いの外肌が冷えていたことに気付いた。湿度は上がっているかも知れないが、気温はだいぶ下がったようだった。



 雨の匂いは、降り始め特有の生臭さを帯びたものではなく、充分に空気が洗い流されてしっとりと落ち着いた匂いになっていた。窓際に置いてある練り香の香りと混ざり合って、夜の森の気配に似たものを漂わせている。



 一海は窓を閉めるために起き上がった。


 いつの間にか風向きも変わっていたらしい。このままでも雨が吹き込むことはなさそうなので、窓の隙間を細くしてから改めて布団に潜り込み、丸くなった。



 遠くで救急車とパトカーのサイレンが聞こえ、やがて雨音に消えて行った。


 どこかで猫の鳴き声が聞こえる。


 誰かを呼ぶようなか細い鳴き声は、雨との相乗効果もあってか物悲しい音色で響く。母猫とはぐれてしまった子猫だろうか。誰かを呼ぶように、歌うように。



 再び深い眠りに落ちて行く一海には、子守唄のようにも聞こえていた。


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