Ⅱ-Ⅲ 雨の匂いと森の香り
* * *
一海が帰宅した時には、もう夕食の支度ができていた。思ったより随分店に長居していたらしい。
テーブルについてから、一海がうやうやしく緑色のアロマキャンドルを取り出す。
すると、普段は母親の表情を崩さない李湖が、まるで女子高生のようにはしゃいで喜んだ。更に一海のバッグから紅茶の缶やチーズやお香や練り香水などが次々出て来ると、今度は目を丸くして驚いた。
一海はエビフライを頬張り、タルタルソースの塊を茹でたじゃが芋にたっぷり乗せながら、身振り手振りを交えて今日の出来事を報告した。
「で、そんなにいっぱいサービスしてくれなくてもいい、って一度断ったんですけど、どうしてもって――あ、これ、店名にもなっている『チェシャー』のチーズだそうです。店長の月光さんが説明してくれました。猫の名前じゃなくて地名だったんですね、チェシャって」
不思議なことに、店主が持たせてくれたお土産は、どれもが李湖や一海の好みに合う物だった。李湖は事の顛末を聞き、時々頷きながらそれぞれの香りを確かめ、感嘆した。
「知り合いだったなんてねぇ。こんな偶然あるのねぇ」
「偶然っていうか、リコさん、知ってて俺に頼んだんじゃないんですか?」
一海が問い掛けると、李湖は首を振った。
「ううん全然。キャンドルの残りが少ないから次は何にしようかな、って今日たまたま考えててね。今あるキャンドルは、招き猫屋にももう残ってないのは聞いていたから。どこかに売ってないかネットで調べてたのよ。そしたら、ほら」
李湖がノートブック型のコンピューターを持って来て開き、どこかのブログサイトを一海に見せる。
そこにはかなり下から煽ったアングルで、店の入り口と看板と澄ました表情の店主が写っていた。
「これね、雑貨屋さん巡りが好きな人のブログでよく見てるんだけど、ほらここ」
李湖が指したのは次の写真。店主が商品を手にインタビューを受けているスナップの左下に、緑色の猫の頭半分くらいが写り込んでいた。確かにそれはアロマキャンドルの猫だった。
「……よくこんな小さいの見つけましたね」
「でしょう? お母さんも自分でびっくりしちゃったわ」
得意気に鼻を膨らませている李湖を、一海は微笑ましく思う。
「あぁ一海くんほんとにありがとう。西川のおじいちゃんにもお礼言わなきゃ――あ、今夜圭槙さんにもこれ自慢しちゃおうっと」
何度もお礼を言われるのは照れ臭い。
だが今日のハプニングで、李湖の間に未だに存在するぎこちなさを、また少し解消できたかも知れない、と一海は思う。
いつもよりゆっくり過ごした夕食の後、一海は自室に戻ると窓を開けて風を入れた。
蒸し暑い夜だった。
肌にじっとりと重みを感じる空気には雨の匂いが混ざっている。これから降るという前触れだろうか。
それでもしばらく風を通していると、多少は過ごしやすい気温になって来たようだ。
今日もらった二枚の財布から名刺を取り出す。湿気で柔らかくなっていた。
一海はベッドに寝転んでそれらを眺める。高揚していた心も、次第に落ち着いて来た。
「月光さん、なんかかっこよかったなぁ……」
一海が似たような恰好をしても、きっと浮いてしまうだろう。月光に対する羨望と嫉妬のような感情が心の中に湧いて来る。
店主の月光は一見頼りなげだったが、シャツから見えていた腕は、細いながらも顔や雰囲気からは想像できないくらい筋肉質だった。
――あの筋肉は、ひょっとしたら労働の賜物なんだろうか。小物雑貨だけではなく、今日運ばされたような重い荷物を普段から扱っているのだとすると、その可能性は高いよな。案外今日のあれも、涼しい顔で運び終えてしまうのかも。
一海は結局二、三往復でヘロヘロになってしまい、店員にも手伝ってもらったのだが。
月光は、顔だけではなく身体も日焼けしていた。
アッシュ系の髪色の一部には白メッシュが入っており、長めの後ろ髪を結わえていた。雑誌でよく見るサーファーのような風体だ。
しかしハイビスカス柄のシャツでもなければ、ビーチサンダルを履いているわけでもなく――もっとも、サーファーファッションの全てがそういうものではないのかも知れないが――今日見た限りでは、店内のどこにもサーフボードやそれらしい雑貨が飾られてはいなかった。
思い返せば、南国風というよりはむしろ、どこかの民族衣装に使われているような、エキゾチックな幾何学模様がプリントされているシャツを羽織っていた。
指輪はしていなかったが、腕輪を左右の腕にいくつか着けていた。それも確か幾何学模様だった。
ピアスのようなものも付けていた。
だがそのピアスも、学校にいるチャラい男子たちとは違って落ち着きがあり、ファッション自体が独特の雰囲気を作り上げていた。
その完成度は、そういう雑誌のモデルだと言われても信じられるかも知れない。
お洒落に疎い一海には判断できないが、とりあえず何かのファッションなのだろう。
ふと、柔らかい香りが鼻孔をくすぐる。その香りがどこから漂って来るのかしばらく考えていた一海は、やっと思い出して鞄の中から小さな缶を取り出す。
それは月光から渡された練り香の缶だった。
* * *
チェシャー店内で、キャンドルに関して話をしていた時のことだ。
一海が住所を書き込むため、差し出されたノートに手を触れた瞬間、店主の月光は静電気に当たったかのように、ぴくりと手を反応させたのだ。
「あれ、少年、あなたは……」
月光は戸惑うように一海を見つめる。
「はい? 何か……?」
見つめられた一海も戸惑うが、月光はしばらく眉間に浅いしわを作り一海の全身を吟味するように眺め回した。
「あの」
妙に熱の籠った視線に炙られ、品定めされているような不安を感じた一海が問い掛けようとすると、月光が片手で軽く一海の言葉を制した。
「どうやら、あなたはこの先、割と大きめのトラブルに巻き込まれそうです。気をつけた方がいいですよ」
月光は小さく息を吐いて腕組みした。
「そうだ、後でトラブル回避の練り香を少しお分けして差し上げましょう。ここでお会いしたのも何かの縁ですし」
「え? いや、俺香水とかつけたことないし……練り香ってそういうやつですよね? それに今持ち合わせがちょっと」
たじろぐ一海に、店主は柔らかく微笑んだ。
「いえ、これは当店からのサービスということで。あなたとは今後も何かしらのご縁がありそうな予感がしますし……」
そしてその『予感』は、直後に当たったのだった。
* * *
渡された練り香は、薄い緑色の小さな缶に入っていた。缶蓋にはやはり幾何学模様がエンボス加工されている。
缶を開けると、ほんのりとエキゾチックな香りが漂う。
手首に少しだけ塗ってみる。それから、缶を窓際に置いた。少しだけ蓋に隙間を作ると、芳香剤のように部屋全体に香る。
店内でも一度確認させてもらったが、森の中にいるようなこの香りが、一海は嫌いではなかった。
「結局、寧々さんのことは確認できなかったなぁ……今度じいちゃんにこっそり訊いてみるかな」
つぶやきながら、一海はまたベッドに寝転がる。
寧々のことを、李湖に質問するのはなんとなく気が退けた。
目を閉じて、深く息をつく。森のような香りを何度も吸い込んだ。
階下からはかすかに笑い声が聞こえる。多分李湖が父と話をしているのだろう。何百キロも離れた土地にいる二人が顔を見合わせて会話できるとは、便利な世の中になったものだ。
しかし一海が本当に会いたい人に会う技術はまだ開発されていない。
十二年前のあの日から……以来、一海は自分が安堵できる居場所を見つけられないままでいる。
――二年前には自分から逃げ出そうとしたのに、未だここにいる……
そんな自分が、一海には卑怯者のように思えてたまらなかった。