エピローグ ありがちな思い出とこれからの夢:前
寧々が変なことを言い出さないか、李湖が誤解をしないかと、はらはらしながら電話を見守っていた一海だったが、案外あっさりと外泊許可が下りたのだった。
BWエージェンシーでの『お泊り会』は、三人でデリバリーピザをつまみ、事務所に転がっていた古い映画のDVDを観たりした。
翌日仕切り直したデートも含め、短い期末休暇の始まりとしてはなかなかのイベントだったろう。
もっとも、そのデートが真にデートと言えるかどうかは微妙だが。
寧々が身辺護衛と称して二人に付き纏い、携帯電話の機種からプランから昼食の予定にまで、あれやこれやと口を挟んでいたのだ。
弥生は楽しんでいるように見えたが、一海の心中は複雑だった。
その後数日間は打って変わって、寧々にも弥生にも会わずに過ごしていた。
一度だけ弥生からメールが来たのは、禅二郎が退院したという知らせだった。
それに短いねぎらいの挨拶を返した他は、ゲームをしたり漫画を読んだりと、今までの一海となんら変わらないインドア生活だった。
出掛けないのかと李湖に何度か尋ねられた……やはり気になるのだろうか。
それでも一海は「ん~……別に用事ないから」と、傍目にはだらだらごろごろして過ごしたのだった。
そして後期の始業日を迎える。
* * *
短い休暇の後は、教室内がざわつくものだ。
お互いどう過ごしていたかの話にも花が咲く。
眠気を誘う校長の訓示や課題の提出など、避けられない苦行も終了した。
その後は、また拘束される日々の直前、束の間の自由時間を少しでも確保すべく、争うように各自下校して行く。
今日もいい天気だ。
だが陽射しはもう、熱いというほどの熱量はなかった。
白っぽく眩しいが、心地いい暖かさだった。紺色の上着に当たると徐々に熱を貯えるが、風が爽やかなので汗をかくまでには至らない。
小さな灰色のビルを見ても、一海にはもうなんの感慨も浮かばなかった。
七階建てのビルの屋上で高千穂と対峙した時の方が、余程恐ろしい経験だったと思う。
あの件以降、一海はまだ風を個風として再認識できてはいない。今ここに吹いている風も、ただの風のように感じている。
だが思い返せば、風は昔からいつでも、一海に協力的だったような気がする。
誰かが階段を上って来る気配がする。続いて非常口のドアノブが回る、かすかな金属音。ドアの蝶番は油を注したのか、工事以降は軋まず静かに開閉できる。
「――先に来ているなんて珍しい。どういう風の吹きまわし?」
屋上のフェンスから景色を眺めていた一海に、弥生が声を掛ける。
一海は振り返って軽く笑った。
「一度、ここで誰かを待つ気分を味わってみたくて」
弥生は頬を染める。
「別に、待ってたわけじゃ……」
「ん? カミサマを待ってたんじゃなかったっけ?」
一海がとぼけると弥生は無言で睨んだ。一海にはその悔しそうな表情も懐かしい。
この数日間、一海にはどれだけ長く感じただろう。
今日の始業式もHRの間も、気づくと弥生を目で追いそうになっていた。
ついさっきも、弥生の気配を感じながら振り向かずに待つのに、どれだけ自制心が必要だったか。
「あのさ、横峰。俺、話したいことがあるんだよね」
改めて一海がそう切り出すと、弥生の表情は少し固くなった。そんな表情をしてくれるのか……と、それすらも愛おしく思う。
泊まった時もその後の休暇中にも、誰も高千穂の件には触れなかった。
当然一海や弥生の血筋や能力についても。
ひたすら、楽しいこと、面白いことだけを話し、考えて過ごすようにしていたのは、一海だけではなく寧々も、そして弥生も同じ気持ちだったからに違いない。
ただ一海は、弥生に自分の血筋と能力について話しておきたいと考えていた。
だからどう話すべきか、自分はどうしたいのか、休暇中にずっと考えていたのだ。
心構えがないままに弥生に会ったら、ずるずるとなし崩し的に、今の中途半端な自分でいそう気がした。
きちんと自分の身の上を説明したのち、改めて弥生に気持ちを伝えたかった。
流されたのではない、本当の想い。
そしてもし、弥生がヒトではない一海を受け入れられないのなら、潔く身を引こう……そう決心していた。
自分のことなのに、元来話下手なうえ、伝聞や仮説と話があちこちに飛んだ。
それでも一海はどうにか、ざっとした経緯と、ひとりで探偵事務所に通っていた理由を弥生に告白する。
「ふぅん……猫、ねぇ」
やはり弥生も、話を聞き終わってからもイマイチ納得しきれないという態度だった。だが寧々の風操りを知っている分だけ理解はできたようだ。
「あの人たちが猫猫言ってたのは比喩かと思ってたけど、そういうことだったのね」
「ほんとに猫になるのかどうかは、わからないけどね。ってか俺、まだなったことないし」
一海自身にも、自分がどうなってしまうのか想像ができない。
それも不安要素だった。
「私は……」
と、弥生が切り出したがまた考え込む様子になり、一海はその横顔を見つめる。
そのまま、なかなか次の言葉を口にしない。これは玉砕フラグかも……と、一海の緊張が高まった頃、ようやくまた弥生は口を開いた。
「私は……猫は苦手だな。かわいい顔して油断させといて、その実、牙やら爪やらが相当な凶器だから。いやむしろ生き物全体が苦手だ。特にお前みたいなしつこい奴などは超絶苦手だ。なのに毎日毎日こうも飽きずに屋上へやって来るとは、よもやカミサマでも予想できなかっただろう」
一海は脱力した。
――なんだこれ、こいつ全然変わんねえじゃねえか。この数日間の俺の努力と緊張を返せよ……
「あのなぁ……どっからそういう全否定に繋がるのかよくわからんが、どさくさにまぎれて文句言うな。俺は好きでしつこくしてるんじゃないと何度言えば理解するんだ?」
「じゃあ構わなければいいと思いますぅ。うるさい担任にお手上げ宣言をしてしまえば、いっそ楽になると思いますけどぉ? っていうか、後期の生活委員を辞退しちゃえばいいだけだしぃ」
小学生みたいな口振りで弥生が反撃する。どうやら担任の矢坂にも直接注意されているらしい。
「そういう無責任なことをするくらいなら、最初から何もしねえよ……俺、本当は中途半端な態度って居心地悪くて嫌いなんだよ」
「ふぅん……でも生活委員に指名された時、嫌だーって顔してたでしょ? あと、仕事するの面倒だとか言ってたじゃない」
拗ねたような弥生の言葉で、一海は急に思い出した。
「そういや、俺を指名したのって確か横峰だったんじゃねえ?」
弥生を指差しながら一海は愕然とする。
「ってか、何? 俺に面倒なこと押し付けといて、お前しつこいとか文句言ってたのかよ? マッチポンプじゃねえかよ」
弥生はその指をそっと握り、自分の手の人差し指も立てて勝ち誇ったように胸を張った。
「覚えていたとはさすがだね、明智くん。じゃぁ、ここで逆の発想をしてみよう。お前が好きでしつこくするようになれば万事問題解決じゃないかな?」
「はぁ? 何言ってんだお前」
一海はつい突っ込む。
「お前にお前と呼ばれるような覚えはない」
相変わらずこれについては突っ込み返しが早い。
「じゃあお前は俺のことをお前って呼ぶような覚えがあるのかよっ」
――あ、やべ……とうとう言っちまった。
うっかり一歩踏み込んでしまった自分の言葉に、一海は固まった。
弥生はしかし、片眉を少し上げただけで、薄い笑みを浮かばせた。
「――ある」
と短く返し、一海の手を離す。
「ちょ……まさかの返し」
一海はぽかんとする。
「いつそう言い出すかと待っていたんだけど、なかなか時間が掛かったねぇ――そうさのう、あれはまだお主らが黄色いスモックを着て歩き回っていた、ほんのひよっこの頃じゃった……」
「……って、それ、ひょっとして幼稚園の頃?」
一海は、弥生の下手な物真似口調に突っ込むのも忘れるほど驚いた。
弥生の記憶力に感心する反面、この年頃というのは、幼児の頃のエピソードを未だに引きずっているいることを恥じるものだと思っていたのもある。
「よくわかんねぇけど、そんな昔の約束だかなんだかを……っつーかまず、同じ幼稚園にいたっけ?」
「まだ何も話しておらぬわたわけ者め。っていうか、一海くんは私の部下だったの。部下っていうか家来? むしろ下僕? みたいな?」
早口でまくしたてる弥生はますます得意気に見える。
「クイーンマーチ号の乗組員でね。そんな美味しいエピソードをむざむざと手放すわけないじゃない?」
「いや覚えてねえし! っつかむしろさっさと手放せ! 忘れろ! 何だよ下僕とかって!」
さすがに今度は全力で突っ込んだ一海。
しかし弥生の言葉で不本意ながらも、当時の様子をおぼろげながらに思い出してしまった。
――確かきっかけは子ども番組だったような。みんなそれぞれ好きな船名をつけていたが、海賊クイーンマーチ号の船長はやっくんで、他は直属の配下という設定で……
「って――クイーンマーチ? あの海賊の? ――あの、やっくん?」




