ⅩⅣ-Ⅲ 一海の衝動と寧々の凶暴
気のせいではない。
タールよりも重くまとわりつく暗闇の悪夢の中に届いた寧々の声。一海の意識はその声で一気に引き上げられた。
突然、抑えきれないほどの凶暴性が一海の中に芽生えた。
憎しみ、怒り、一海が最近持て余していた負の感情が、ここにきて一気に噴き出したようにも感じられた。
――憎い……憎い。こんなやつ、俺が叩き潰してやる――壊してやる! ……この世から全部消し去ってやる!
吐き気をもよおすほどの耐え難い怒りに震えながら目を見開くと、辺り一面に火花が飛び散っている。
バチバチと破裂音がそこら中に鳴り響き、身体中の毛が逆立つような感覚に覆われる。
視界一面の眩しい火花、その中に一点だけ、染みのような黒い存在――あれが『敵』だ。
そう認識した途端、残忍なまでの衝動が抑えられなくなる。
――こいつが……こいつが、俺の大事なものに手を出そうとしやがった! こいつが……こんなやつが――! 許せない――絶対許さない!
呪詛のように心の中に吹き荒れる怒りで、全身がわなわなと震えた。
『こんなやつ――ぶっ飛ばしてやれっ!』
一海の心の中を覗いていたかのようなタイミングで、頭の中に直接響く寧々の声。次の瞬間、一海は凶暴性に支配される。吠えるように叫び、全力で地面を蹴って飛び出していた。
「ぅわああぁぁぁ――――っ!」
――また弾き飛ばされるかも知れない……
そんな気弱な考えが頭の隅をかすめたが、それよりも抑えきれない怒りの衝動が一海を動かした。
「くっそぉぉぉ! ぶっ飛べぇぇぇっ!」
一海が叫びながら渾身の拳を叩き込む瞬前、一海の目の前に手を突き出した高千穂の「――愚かな……」という嗤い声が聞こえた――気がした。
「――ぐゎぅっ!」
「ぅごふっ――」
一海が自身の手に重い衝撃を感じたと同時に、巨大な炸裂音と、二つの呻き声があがる。
続けて、ドサリ、バシャリという、物が投げ出されるような音が、全身に受けた衝撃とともに、一海の耳に届く。
案の定、一海は地面に叩きつけられて、左肩をしたたかに打ちつけていた。
しかし先ほど高千穂に弾き飛ばされた時のような酷い衝撃はなく、すぐに体勢を立て直して相手の姿を捉えようとする。
――ノルアドレナリンかなんかで痛みに鈍くなってん……
明確な文章にはならなかったが、一瞬だけ考える余裕もあった。
一方、すぐさま反撃して来ると思った高千穂は何故か地面に倒れている。
恐る恐る近づいてみると、白目を剥いたまま、ひきつけを起こしたように痙攣していた。
「え? なっ? なんで?」
一海には目の前の光景が信じられなかった。
倒せれば、と思った。ぶっ飛ばしてやる、とも思った。しかし自分のパンチにここまでの威力はないはずだというのも自覚している。
「どどどどうしよう、打ち所が悪かったんだろうか……」
途端に、さっきまでの凶暴性は跡形もなく消え去って血の気が引き、一海はおろおろする。
「いや、あんたがやったんだよぅカズミン。すっげーお手柄だぁ。あはは、こいつらまで失神してやがる。ざまぁ」
荒い息を繰り返しながら、寧々がふらふらと立ち上がった。
寧々の身体や手首を拘束していたヘビの鎖はずるりと地面に落ち、あっさりと踏み潰される。
続けて寧々は首に巻きついていたヘビに手を掛け一気に引きちぎる。
ぷしゅう……とガスが漏れるような音を立ててヘビが四散した。後には何も残らない。
「あとはあたしがやる――こいつ、このまま成層圏まで飛ばしてやるよ。ぶっちゃけ今なら宇宙までだって飛ばせる勢いだ」
寧々は肩で息をしながらニタリと笑う。
「――大事な甥っ子を傷つけて寧々さんを怒らせた罰だ……宇宙で破裂しやがれ!」
全身に青痣を作り、すっかり血の気が引いた寧々の顔は、目が酷く吊り上がっている。それは一海が今まで見たことがないような凄惨な表情だった。
気圧されて声も掛けられず、ただ茫然と寧々を見つめる一海の目の前で、寧々は風を呼び集める。
口笛のような、川のせせらぎのような『音』が寧々の口から編み出されて行く。
待ってましたとばかりにつむじ風が次々と踊りながら集まり、みるみるうちに大きな渦になった。
風など目に見えない物だと思っていた一海は、ぼんやりと薄紫に霞む風の渦の向こうの景色に目を奪われていた。
「――こいつを、吹き飛ばしてやんな!」
寧々はそう叫ぶと同時に左手を高く掲げる。
禅二郎を運んだ時の風とはまったく違う、台風のような暴風の塊だった。気絶した高千穂の身体が錐揉みしながら舞い上がる。
「え、え? だっ駄目だ寧々さん! 何やってんだよ、それじゃあの人、死んじゃう!」
比喩ではなく、寧々は本当に宇宙まで飛ばすつもりだとようやく理解して、一海が慌てて引き留めた。だが、寧々の表情は変わらない。
「寧々さん! 寧々さんってば! ねえ聞いて!」
例えモノだと言われても、一海にはやはり人間にしか思えない。例え殺され掛けたとしても、それで無抵抗な相手を殺していいとは到底思えない――一海は必死で叫ぶ。
「寧々さん! これじゃあなた人殺しになっちゃうよ!」
「ヒトじゃないし、あいつは……あいつは、姉さんを殺したんだから……あのままじゃあたしやあんたまで」
冷酷なまでの無表情で、血の気を失った唇で、抑揚のない声で、寧々は吐き捨てる。
「そんな理屈じゃないでしょう! やめてよ! 寧々さんにはそういうことを言って欲しくなかっ――」
一海は悲鳴のように叫んだ。
涙と共にどうしようもない悲しみが込み上げ、声が詰まる。
「いいんだよ……ここで逃がしたらまたあいつ――」
「でっ、でもぉっ!」
一海は寧々にしがみつき、駄々をこねる子どものように首を振る。
例え寧々にどんな理由があったとしても、それは一海には受け入れられる考えじゃなかった。
「どうせあいつが消えたところで、ニュースにもならないし誰も気付か……なっ、うそ、逃げた? あの状態で? まさか?」
唐突に、寧々が慌てて空を見上げる。
つられて一海も見上げるが、既に寧々が作った風は遥か上空まで吹き上がってしまったので、何も見えない。
「え……逃げたって、気絶してたのに? どこに?」
先ほどの能面のような顔から一転、寧々は心底悔しそうに顔を歪める。
「くそ、きっとカラスだ……あいつをくわえて風から下ろしやがったのか。くそ……まさかそんなことができるなんて――」
一海は何が起きたのか理解できず、寧々にすがったままぽかんとしている。
やがて大きくため息をつき、寧々はやれやれ、という風に肩をすくめて首を振った。
「はぁ――逃がしたモノはしょうがないや。でもあいつ、あの様子だと相当なダメージを食らってるはずだし、しばらくは動けんだろうし。その間にカイルと対策を講じればいいかぁ」
やっと少しだけ優しい表情になり、寧々は一海に微笑みかける。
「――カズミンのパンチのお陰だよ。よく頑張ったね」
だがまだそれはぎこちない。
「そんな……俺、なんかもう精神的に、べしょってなってたんですよ。でも、寧々さんの声が聞こえて……あれがなかったら駄目だったと思うし」
そう言って一海が寧々に返す笑顔も、曖昧でどこかまだ引きつっている。寧々の暗い部分を見せつけられて、胸が痛んでいた。




