ⅩⅣ-Ⅰ 黒い男と暗い空
一海は一段飛ばしに駆け上がる。
直観的に、弥生たちは屋上にいるのだと思った。
エレベーターではなく、階段の方へと足を向けたのは、狭い空間から出た途端に何か仕掛けられても逃げ場がないからだ。
ひょっとしたらどこかのフロアに高千穂の居所があったり、他の入居者がいるのかも知れない――そういう考えも多少あったが、通り過ぎたどの階にも、人がいるような気配はなかった。
六階分の階段を一気に駆け上がると、さすがに息が切れた。
屋上まではまだ一階分上らなければならない。
「――これでも四階までなら結構余裕になったんだけどなぁ」
一歩ずつ段を踏みしめながら、二年になりたての頃の自分の姿を思い出す。弥生を追い駆けて校舎の屋上を目指しては、ゼイゼイと息を切らせていた。
一海は自嘲的に笑う。
――俺、あんなに苦手で憎たらしくて面倒臭い相手だったやつのために、なんでこんな必死になってんだろう……鳶田らが今の俺を見たら、なんて言うんだろう……「やっぱりな」なんて言うのかな。
「――いや、誰がなんて言おうと構うかっつの。今は……」
一海は確認するように自分の言葉を噛み締める。
所々錆が浮いている手摺をぐっと掴み、息を整える。
「横峰ぇっ! 寧々さん! どこだぁっ!」
そう叫びながら、最後の数段を駆け上り、非常口のドアを蹴り開けた。
* * *
目の前に、灰色の風景が広がった。
そこから見える景色は、今にも大粒の雨がこぼれ落ちそうなどろどろとした黒い雲。霧の中に消え掛けた高速道路――そしてそれらを背景に、一海から一番遠いフェンスを背にして立つ高千穂がいた。
頭のてっぺんからつま先まで、不幸色で真っ黒に染まっている、この不吉な男。初対面からいきなり嫌悪感を抱いてしまった相手。
高千穂の前に投げ出されたように倒れているのは、寧々と、弥生だった。二人とも後ろ手に縛られている。
寧々は更に、胴の辺りも鎖のようなもので巻き取られていた。
――ひょっとして俺はまだ布団の中で、今は悪夢を見ているんだろうか?
映画の撮影でもなければ、こんな場面を目の当たりにすることなどないだろう。しかも人質役は自分の身内だ。
あり得ないと思いつつも一度想像した状況そのものだったが、やはり一海は目の前のこれが現実だと理解できず、ただ茫然と息を飲んで立ちつくす。
だがすぐ我に返り、とりあえず寧々たちの元へ行かなければ、と一歩踏み出した。
その一瞬、高千穂が何かを一海に向かって投げつけた。
十メートルは離れているはずなのに、それは真っ直ぐ一海の顔をめがけて飛んで来る。すんでのところでかわすと、それは一海の頬をかすめて壁に叩きつけられた。
ぶじゅる――と、トマトが潰れたような湿った音が背後からあがる。
「ぉわっ! っぶね……なんだこれ」
振り返ってそのボールのような物体を確認しようとすると、またひとつ飛んで来たのが目の端に映る。一海は慌ててそれもかわす。
壁に当たると跳ね返って来るでもなく、そのまま力なく落ちる。水風船だってもう少し脅威になるだろう。だが目の前のそれは、枕やタオルを投げつけられたような、武器としては随分な頼りなさだった。
「――んだよ、危ねえなぁ……」
ただの威嚇かも知れないと判断し、だらしなく転がっている物体を無視して進もうとすると、「カズミン! それ、踏んで!」と、倒れたままの寧々が叫んだ。
後ろ手に縛られ、背を向けている寧々は、無理矢理首をひねって一海の方を向いていた。その声はまるで首を絞められているように苦しげで、一海は言葉に従うよりも寧々たちの方へ駆け出そうとする。
「こっち来ちゃ駄目! それ踏み潰して! 早くっ!」
寧々が必死に叫ぶ。
一海ははっと立ち止まり、慌てて足元の塊を踏みつける。
踏んだ瞬間はぶにょり、と妙な弾力と柔らかさがあったが、すぐにぱちんと弾けて消えた。
「――え、今の、ヘビ?」
見た目は細い紐か鎖の模様がついた塊のようだったが、踏みつける寸前、それは一斉に反撃するかのように、細かい無数の鎌首をもたげていたのだ。
ヘビを踏んだのかも知れないと思った途端に、一海は怖気立つ。
自転車のカゴにヘビがいたのを目にした時と同じ、本能的な恐怖と嫌悪だった。思わず踏んだ足を両手でぱたぱたと払う。
「まだ邪魔をする余力があるのですか?」
高千穂は舌打ちをし、冷たい目で寧々を睨みつけている。
高千穂が佇んでいる場所は、余程視力がよくなければ表情などわからないような距離だ。なのに睨んでいる、ということが一海に感じられる。
怒りと憎悪――それから、蔑むような感情が、全身から湧き上がっているように見える。
高千穂は寧々に向かって手をかざし、同じ物体を放った。
それは身動きの取れない寧々の首元に当たり、とろりと溶けたかと思うと鈍い銀色の紐状に変化しながら首に巻き付いた。
「――ぅく……ぐ、ふ……」
「寧々さんっ」
苦しそうな寧々に駆け寄ろうとした一海の足元にも、また塊が飛んで来る。一度に大量に飛んで来ることはなさそうだが、いちいち踏み潰さなければいけないことに煩わされる。
「お坊っちゃん、それは力づくでははがせませんよ。あなたがそれに手を掛けた途端、いや、雌猫に触れた瞬間にでも、雌猫の首をへし折ることでしょう」
高千穂が笑いを含んだ声で語り掛ける。
一海は寧々に触れそうだった手を慌てて引いた。
寧々に巻きついている物の正体はやはり細く長いヘビで、灰色の鱗が灰色の空を映してくすんだ銀色に見えていたようだ。小さな鎌首をもたげて一海と寧々に威嚇を続けている。
今なら一海にもわかる気がする。
あの時の黒蛇と高千穂は同じモノだ。一海につきまとい自宅まで尾けて来たんだろう。いつからだったのかはわからないが、本当に一海は高千穂に目をつけられていたのだ。
理屈じゃない。第六感のような――多分カイルが言ってた『勘』だ。
非科学的な、と、少し前の一海なら苦笑していただろうが、いざ自分が体験してみると、他に形容のしようがなかった。
寧々たちを少しでもかばうように立ちはだかり、一海は高千穂を睨みつける。
「お前……横峰に、寧々さんにも……何しやがった!」
高千穂との距離はまだ四、五メートルは離れていた。しかし高千穂にはボールのように飛ばせる、しかも意思を持って攻撃して来る『武器』があるのだ。
対して一海には何もない……棒切れひとつもない、完全な丸腰だった。
高千穂もその圧倒的な力の差を理解しているのだろう。まったく臆することなく、むしろ莫迦にした視線を一海に向けた――その瞳はいつか遭遇した黒ヘビのように、つやつやと赤い。
「お坊ちゃんはまた人聞きの悪いことをおっしゃる。お嬢様方がなかなかこちらの要求を聞き入れて下さらないようなので、ほんの少し念入りにお話し合いをしていただけですよ」
そう言ってまた高千穂は一海に向かってボールを飛ばした。一海は嫌悪感に駆られて咄嗟に殴りつける。やはり四散した。
「話し合いだぁ? 怪我人や病人を引っ張り回したあげく、こんな所で縛り上げといて、どこが話し合いだよ!」
「怪我人? 病人? ははっ」
高千穂のざらざらと耳障りな笑い声に、一海は身震いしそうになる。
声を聞いているだけでも、得体の知れない恐怖が侵食して来るような気がしてならなかった。それでも今は、かろうじて恐怖より怒りの方が勝っているのでどうにか耐えられる。
「な、何がおかしい?」
一海はそう言いながら、また一つ飛んで来た蛇玉を叩き潰す。
「こいつらはヒトじゃないんですよお坊っちゃん。私も、そしてあなたもヒトじゃない。ヒトとして認められなかった、忌み嫌われて迫害されて来たモノの子孫だ――あなた、それをご存じないわけじゃあないでしょう?」
「違う!」
一海は即座に否定した。
忌み嫌われた先祖返り。生まれた時から魔王にもなり得る……確かにそういう話はカイルたちからも聞いた。それでも人間だという話も。
だから一海は、高千穂よりもそう話してくれたカイルを信じる。
「違いませんよ。私の血筋には、生まれた直後に贄として捧げられた者もいます」
「そんな話は――昔なら、そりゃいいことじゃないと思うけど、いくらだってあっただろう?」
だが高千穂は一海の言葉を莫迦にするように、ニタリと不気味な笑いを浮かべた。