Ⅱ-Ⅰ 白いニットと黒いブーツ
その日の放課後。
一海は、李湖に頼まれた店を探している途中で軽く迷子になっていた。
高校から自宅へ向かうのとは反対側に、街の西側にある郊外の方に向かったまではよかった。だが、滅多に訪れない場所は、やはり土地勘が働かない。
一海は信号下の歩道に自転車を止める。携帯電話を出してメールに書かれている番地をもう一度確認してみた。
「住所の通りだと、この辺から右に曲がるんだと思ったけどなぁ? っつか、これなんて読むんだろ……チェ、チェシ、レ?」
そもそも、メールに書いてある店名が読めないので、通行人に訊くこともできないのだった。
その独り言は高架を走り抜けて行った電車の音にかき消され、すぐ近くをすれ違う歩行者にも聞こえない。
一海の自宅や学校がある住宅街とは違い、郊外付近の風景はグレーが多い。
電車の高架や高速道路の太い橋脚が延々と整列していた。その下もまた幹線道路になっているため、四六時中ごうごうと車の行き交う音が続く。空気には排気ガスのにおいが混じる。
更に南側の街外れに向かうと、倉庫街や工場もあるらしい。
ここよりもう少し西の方面には、アーケード街がある。
大きめのゲームセンターやファストフード店、ファンシーショップなどが並び、学校帰りの学生やカップルなどで溢れている――という話を聞いたことがあった。
しかし学校からは少し遠く、今のところ一海自身にもあまり縁のない場所なので、実際に足を踏み入れたことはまだなかった。
「えーと、この辺ってビルの間に細い道があったりして、ひょっとしたら看板とかこっちにも――ぶふゎっ?」
首を傾げてビルとビルの隙間を覗き込もうとした瞬間、そこから飛び出して来た真っ白で柔らかな塊に顔面を直撃された。
「あ、あぶなっ?」
一海は思わず叫んでしまう。
「そこで何をしてる! この覗き魔!」
「え? えっ?」
身に覚えのない叱咤の声が頭上から飛んで来て、驚いた一海は一歩後ずさる。
目の前の物体を改めて確認すると、飛び出して来たのは真っ白で毛足が長い猫か犬――の類ではなく、ニットのV字ネックから見えている、これまた真っ白な、いわゆる胸の谷間というやつだった。
寸前の状況を理解した一海が真っ赤になりながら見上げると、その谷間の持ち主が不遜な目で一海を見下ろしていた。
「の、覗き魔って……そりゃ探し物してんだから、あちこち覗いたりはするけど!」
「はぁ? この期に及んで開き直るんじゃねーよ! 蹴られたいのかてめえ!」
相手の声と目つきが危険な感じに鋭くなったので、一海は慌てて付け足す。
「で、でもそっちが急に飛び出して来たんだから、俺が意図的に覗こうとして覗いたわけじゃないし!」
悲鳴のような声で訴える一海の言い分を、相手が不信感全開で聞いているのは間違いない。
一海を睨みつけている丸く大きい目は、肉食獣が獲物を捉える時のように、冴え冴えと緑色に光っている。
顔つきは日本人なので、どうやら緑色のコンタクトレンズを入れているらしい――だが、危険そうなのは目つきだけではなかった。
その女性の外見は、いわゆるヤンキーかギャルか――つまり、住宅街のご近所さんには絶対いなさそうな、下手に関わり合うと痛い目を見そうなタイプだった。
ほとんど金髪まで脱色したセミロングを高めのポニーテイルに結わえ、キュッと目尻が上がり猫をイメージさせるメイクだが、ギャル系メイクのような濃さはない。
――ってことはつまり、ヤンキーの方か?
上半身はぴったりと身体にフィットした半袖のニット。色あせたデニムのホットパンツからすらりと伸びた脚、ゴツい黒のロングブーツ。
――実際あのブーツで蹴られたら相当痛そうだよな。
一海は更に慎重に、相手の出方を待つしかなかった。
金髪女の身長は、一海と同じくらいかも知れない。しかしブーツがかなりの厚底だった。更に彼女が立っている足元には、塀に使うブロックが並べられている。そのせいで、一海の真正面にはVネックが誇らしげに、文字通り胸を張っている。
金髪女は――色んな意味で――攻守共に完全装備だった。
――今日の運勢は絶対、女難の相ってやつだよ。横峰やこいつみたいな、凶暴そうな女にばっかり絡まれて!
一海はそう叫びたい気分をぐっと堪える。
できるだけ誤解されないように、距離を保っていた方がいいだろうと一海は判断し、更に一歩下がってなるべく首から下を見ない努力をする。
ただでさえ人通りが少なそうな路地だというのに、運の悪いことに通行人が見当たらない。この状況で相手が誰かに助けを求めたりしたら、覗き魔でも痴漢でも冤罪の出血大サービス間違いなしだろう。
「あの……」
しかし相手は、おそるおそる話し掛ける一海の顔や制服をじろじろ見た後、急に態度を軟化させた。
「おや、その制服は城高の生徒だね。ふむ、探し物かぁ、それは悪かった。いやね、最近この辺を嗅ぎ回ってるドブネズミが数匹いて、あたしらも警戒をしていたところだったんだよ。お詫びに、その探し物に付き合おうではないか。どうせ今日は暇だしさぁ」
「い、いえ、この辺の住所だけ確認できたら、自分でできますから」
――ってゆーか、こんな凶暴そうなヤンキーの『暇潰しの相手』って。何をされるかわかったもんじゃないじゃないか。
たちどころに狭い路地裏に連れ込まれ、なんのかんのと理不尽な因縁をつけられ、あれよあれよという間にいかにもな集団に取り囲まれて、気付いた時にはなけなしの小遣いを巻き上げられる羽目にでも陥ったら元も子もない。
一海の脳内では次々と怖い想像が展開されていた。びくびくした様子を悟られないように注意しながら、ゆっくりまた一歩後ずさる。
「まぁ固いこと言うなよぅ、同類のよしみだ。こう見えてもあたしは探し物のプロだよ? 何しろそこの探偵事務所の副所長なんだからさぁ」
そう言って、金髪女はどこからか名刺を取り出し、片手で一海に押し付け、空いている方の手で向かって右側のビルを指す。つられて一海が見上げると、二階の窓には『BWエージェンシー』という切り文字が貼ってあるのが見える。
――どうやらただのヤンキーではなさそうだ。
「はぁ、そうですか……ってか同類って、んなわけ……って、ちょっと! 人のスマホ取らないでくださいよ! えっと、おねえさん?」
金髪女は一海が二階を見上げている隙にその手から携帯電話を取り上げ、勝手にメールに目を通し始めていた。
「あぁ、チェシャーか。この店ならもう二ブロック先だ。きみの母上は初めて買い物するようだし、なんなら、あたしから店主に紹介してやろうか。あいつらちょっと気難しくて、気に入らない一見さんは断られたりするしさぁ」
そういうと、金髪女は白い歯を見せて笑う。
「はぁ……そ、そういう店なんですか?」
一海は金髪女の言葉を聞いて、急いで脳内の先入観を払拭させる。
――この人、そんなに怖い人でもなさそうだ。むしろ親切なのかも知れない。うん、きっと。だといいな。
「じゃあお願いします。えっと、西川さん」
名刺の『西川寧々』という名前を確認しつつ一海がそう答えると、金髪女は八重歯を覗かせてにやりと笑った。
* * *
一緒に店に行くことになったまでは、よかった――だがしかし、一海にはやはり女難の相があるのかも知れない。
「そうだ。ついでに持って行きたい物があるから、ちょっと自転車で運んでもらってもいいかな?」という金髪女、もとい寧々の口車に一海が乗せられた形で手伝うことになり――
たちどころに狭く急な階段に押し込められ、なんのかんのとダンボール二箱の書類やら、幼児が隠れられそうな大きさのリュックに入った『極秘のブツ』やらを運ばされ、あれよあれよという間に探偵事務所と一海の自転車を三往復させられて、気付いた時にはなけなしの体力を使い果たす破目に陥っていた。