ⅩⅡ-Ⅰ 悩ましい問題と厭わしい再会
BWエージェンシーを出たのは、藍色の空にラベンダー色の縁取りがうっすらと残る黄昏時になってからだ。秋の日の夕方はやはり短い。
寧々と弥生もすっかり打ち解けたようだ。
単純に『打ち解けた』というより、急速に親密度が上がったと言った方が正しいかも知れない。別れの惜しみ様は、一海だけじゃなくカイルまでが呆れるほどだった。
「カイルさんがあんな顔してたってよっぽどだぜ? 普段のカイルさんって基本的に我関せずなんだよなぁ……今日みたいな寧々さんの過激なスキンシップも、止めてくれたことがないし」
駐輪場に向かう道の長い信号待ちの間、一海はついぼやいてしまう。
一海は、寧々と弥生に挟まれてサンドウィッチのハムの気分を味わったわけだが、その状況を見てもカイルは顔色ひとつ変えなかったのだった。
助けを求めていた一海としては、自分を挟んでいるものが食パンよりも弾力があるために、鎖骨の下やら肩甲骨やらにその弾力を意識しないわけには行かず……
と、うっかり思い出し掛けて、慌てて咳払いをする。
弥生は一海の様子を不思議そうな顔で見ていたが、ふと思い出したように話し始めた。
「私ね、寧々さんに訊いてみたの」
「何を?」
――そういえば、二人で内緒話をしていたな……と、その様子を一海は思い返す。
いわゆるガールズトークというやつかと思ったので、一海はあえて口を挟まずに、部屋に入って来た灰色猫と戯れていたのだった。
「ユーレイは、電子機器に影響を与えるか、って」
「あー、うちのクラスのあれかぁ」
「そう」
――きゃっきゃとはしゃいでたように見えたのに、そんな話をしていたのか。二人ともどういうノリなんだよ。
だが、話を聞いて来たにしては、弥生は未だ思案顔だった。一海は先をうながす。
「で、なんて?」
「『んなわけないじゃぁん』って笑われたわ」
弥生は寧々の口調を真似して笑った。
「ショートして、電子機器自体を駄目にさせることはあるらしいけど、それも厳密にはユーレイのせいではなく、その周辺の影響だとかなんとか――でも、そうなると……ね」
「そうだな、あれはやっぱり人為的ってことになるんだろうか」
一海も思案顔になった。
――いっそのこと幽霊相手の心霊現象だったなら、あんな風に意志の介在を感じることなどはありえない、というわけだ。
「人為的っていっても、最初は鷹野さんのスマホが廊下に落ちてたところから始まったんでしょ? あと、大多数は教室で、写真やメールが消えてるのに気付いたけど、音楽室で授業が終わってから気付いたのが長浜さんで……」
「お、よく知ってんな横峰」
話ながら書店の前を通り過ぎる。
心もとない街灯よりも明るい店内の照明が、弥生の顔を半分だけ照らした。駐輪場は間もなくだった。
「鳶田くんと守屋くんがまとめてたじゃない。私、あなたたちが喋ってる時、ずっと後ろにいたわよ?」
「えー……だからそういうことは――」
一海はまたたしなめようとしたが、弥生は首を横に振った。
「だってあそこに本棚があるんだもの。あと、他にも聞いてる人はいたわよ? 相真さんとかも。それに私、坂上くんと目が合ったけど、なんかこっち見て目配せしてうなずいてたわ」
「……なんだそれ」
「坂上くんってちょっと不思議よね……で、話を戻すと、人為的だとしても誰がなんのためにあんなことするんだろうね? 面白くないし、無粋よね……それに、もうクラスの九割の人が被害に遭ってるじゃない?」
「そうだな……でも、荒井とか坂上とか、残りの一割は被害がない――まぁ、俺もその一割だけど」
一割と言っても、四十五人のクラスメイトのうち、一海の他には相真と上条を合わせた四人だけだ。弥生はクラス内で唯一携帯を持っていないので、この場合はカウントされない。
「じゃあもういっそのこと、一海くんが犯人でいいんじゃないかな」
弥生が軽口を叩いて笑うので、一海も笑いながら返した。
「なんでだよ。ひでえなそれ」
駐輪場からそれぞれ自転車を引っ張り出し、出入り口で落ち合い、それぞれに精算を終えた。
弥生は、財布をポケットにしまっている一海に問い掛ける。
「そういえば、カイルさんの寝癖って、一海くんから聞いてたほどじゃなかったね」
「寝癖? あぁ……あれっ? そうだね、全然普通だった。でも前はあんなんじゃなかったんだよ」
一海は指摘されてようやく、数日前のカイルの衝撃的な髪型を思い出した。
今日のカイルがあまりにも普通の髪型だったのでうっかりしていたのだ。一海たちが上がって来るより前に寝入っていたというなら、寝癖がついていないというのは確かに不自然な気がする。
「お客さんかも知れないと思って、慌てて直してたのかもね。お客さんというより泥棒だと思ったのかな?」
そう言うと弥生はくすくす笑う。
不審者相手なら、気配もなしに近付いてきたカイルの態度も理解できるということだろう。
しかしドアの前でもあれだけに騒いでいたのに、それにも気付かないほど熟睡していたのか、と一海は思い返して疑問を抱いた。石の共鳴とやらも、寝ている間には感じないのだろうか……
だがその他にも、まだ引っ掛かることがある気がした。
「そういえば、寧々さんも、いつもとなんか様子が――」
「まぁそれはともかく」
弥生は一海の言葉を遮った。
「二人とも無事でよかったじゃない。ね?」
そう言う弥生の笑顔が本当に楽しかったようなので、今日カイルたちの事務所に行ったことは間違いじゃなかったのだろう、と一海は納得する。
「まぁね」
細かいことは後日訊いてみればいい。その時まで気になって覚えているのなら。
* * *
一海たちの自転車は細い中通りから出て大通りまで走り、大きな交差点の信号で止められた。
信号が変わるその瞬間、「おや、またお会いしましたね、お坊っちゃん」という耳障りな声が一海たちのすぐそばで聞こえた。
耳元で囁かれたようなその不思議で不快な声に、一海は瞬間びくりと反応しそうになる。だが咄嗟に抑えた。
弱みを見せてはいけない相手だと、頭ではなく感覚で――寧々たちの言い方を借りるなら本能的に察しているのかも知れない。
「――どうも」
極力感情を抑えた声でそう言いながらゆっくり振り向くと、ひょろりと背が高い黒ずくめの男がいた。まるで最初からそこにいて、二人の会話をじっと聞いていたかのように佇んでいる。
一海が会うのはこれで三回目だ。
初めて階段ですれ違った時の嫌悪感は、決して思い過ごしではなかった。いや、むしろあの時のこの男――高千穂は、どろどろした醜悪なオーラのようなものを極力抑えていたのだということが、今は嫌でも感じられる。
「お嬢ちゃんも、ご機嫌いかがですか? 最近この辺ではお見掛けしなかったような気がしますが」
細く鋭い三白眼の高千穂は、顔見知り同士が挨拶をするように、上品な帽子を軽く取りながらのんびりと話し掛けて来る。
時候の挨拶を交わすような親し気な声色だったが、いかんせん声自体が耳障りだ。
しかも、あの日事務所で会ったっきりなのに、まるでその後もずっと二人の行動を嗅ぎ回っていたような言い方は、一海の癇に障った。
「あなたには関係ないでしょう」
「ちょっと一海くん」
「猫どもに、関わるなとでも言われたか?」
しゅーしゅーと音にならない音をたてて笑う高千穂。
寧々たちを『猫』と呼ぶのはどういう意味でなのか、明らかに敵意か悪意を持っているのを隠そうもしない。下世話な噂をする奴らのような嫌味な笑顔を浮かべている。
「いいえ、特に何も。というか俺、あなたのことは伝えてませんから」
実際は寧々たちにしばらく会えなかったのと、今の今まで高千穂の一件を忘れていたのだが、そこは虚勢を張る。
「ほう、だからあなた方がいなかったのですね」
少し意外そうに、高千穂の目が見開かれた。
一海は眉をひそめる。「――なんの話だ?」
寧々たちに会えなかった数日間のことだろうか、と予想する。しかし一海は、そこに自分たちが関わる可能性はまったく考えていなかった。
寧々たちは探偵で、一海たちは学生だ。月光と――まだ会ったことがない日光も探偵ではないが、あれだけ寧々ともカイルとも親しそうなのだから、そこは関係があると思っても間違いではないだろうが……
――なのに、この思わせぶりな台詞はなんだろう。カイルさんも寧々さんも、俺らに何かを仄めかすようなことは言ってなかったはずだけど。
一海は高千穂に向かって冷静な表情をできるだけ保ちつつ、頭の中では今日寧々たちと交わした会話を必死に反芻していた。
「いえ、なんでもありません。多分お坊っちゃんには関係のない話でございますよ。ええ」
高千穂はくっくっと薄く笑い、視線を一海から弥生に移した。
「時にお嬢ちゃん、そのペンダントですが……安物なうえに少々趣味が悪いですね?」