ⅩⅠ-Ⅲ 黒い猫と白い猫
黒い猫は、ダンボール箱の山の頂上にいた。
「え、じゃあ、部屋を散らかしたのって?」ぽかんと見上げたまま弥生が問う。
「うん……ひょっとしたらこの猫かも」
物陰から飛び出した瞬間、狙い澄ましたように一海が持っている寝袋に向かってジャンプし、蹴った反動で箱の山に飛び乗ったのだ。
この勢いで暴れてたのだとしたら、あの惨状も納得できる。
「カイルさんがどこなのかはわかんないけど、着替える時に脱ぎっぱなしにしただけかも」
一海は仮眠から起きた時のカイルを思い出す。服装も髪型も気に掛けないでうろうろしていたのだ。言い方は悪いが普段はだらしない方なのかも知れない。
「そっかぁ。なぁんだ……」
弥生はその場にへたり込む。
黒猫は少しの間、青い瞳でじっと一海たちを見つめていた。
が、危害を加える様子がないと判断したのか、その場で毛づくろいを始めた。随分度胸が据わっている。
「じゃああれは片付けてもいいのかな」
弥生は首だけ傾けて床の惨状を示す。
「うーん……どうしようか」
「あ、寧々さんに電話してみれば? 片付けてもいいか訊けばはっきりするわよ」
「でも、手が離せない状況だったら……」
一海が言い淀んでいると、弥生は有無を言わさず携帯電話を一海の上着から引っ張り出した。
「それならマナーモードになってるわよ。電話借りるね。ほんと寧々さんたちのことになるとじれったいんだから一海くんは」
弥生は文句を言いながらキーを操作する。アドレス帳の開き方を訊かれるものだと思った一海は驚いた。
「ひょっとして、寧々さんの番号覚えているのか?」
「当たり前でしょ? 何言ってるの?」
携帯電話を耳に当てながら、弥生は呆れたような顔をした。
「そっか……俺、携帯を使い始めてから番号を覚えなくなったかも」
「それ、脳が退化しちゃうわよ……あれ?」
弥生と一海は顔を見合わせた。寧々の着信音がダンボール箱の山の中から聞こえている。
「寧々さんっ?」
咄嗟に箱をかき分け始めた一海の脳裏には、『探偵、事務所で衰弱死!』という新聞の見出しが浮かぶ。
『ダイイングメッセージは「うまいスープが食べたい」だった!』と脳内新聞の記事は続き、途端に情けない気がして何について慌てればいいのかわからなくなった。
箱の山は積み木遊びをそのまま放置したかのようで、よけるにしても手順を間違えると一気に崩壊しそうな、不規則で危ういバランスだった。
そのほとんどが空か、もしくは入っていても非常に軽い。万が一崩れたとしても重傷にはならなさそうだが、壊れ物が入っている可能性を考えると急ぎつつも慎重にならざるを得ない。
掘り進むにつれ更に薄暗くなる視界の中で、ようやく一海の手が温かくふわりとした塊に触れた。すぐ近くで携帯電話が鳴っている。
「寧々さ……あれ? また猫?」
確認しようと覗き込んだその狭い空間には、寝ぼけたようにぼんやりと寝そべっている猫がいた。
「白猫ってみんな同じように見えるなぁ……うちで雨宿りしてた猫に似てる」
そうつぶやきながらそっと手を差し伸べる。白猫はぎょっとしたように飛び起きた。しかし奥はすぐ壁になっていたため背中を打ちつけて、そのまま尻もちをついてへたり込む。
「うわぁかわいい。あ、前足怪我してるよ」
一海の横から覗き込んだ弥生の言葉で改めて白猫を観察すると、右前足の付け根付近に血のようなものがこびりついている。
「この子たちどこから入って来たんだろうね? 隙間が開いてたのかなぁ」
一海はうなずく。「他の猫も出入りしてるなら、どこかに猫用の通路があるのかも知れないな」
弥生はまた薄暗い隙間を覗き込み、猫なで声を出した。
「傷、そのままじゃ化膿しちゃうよ。こっちへいらっしゃいな、猫さん」
弥生が手を伸ばし、猫に触れる寸前――ふいに背後から声がした。
「お前らいつの間に来たんだ?」
突然だったので、一海も弥生も飛び上がりそうなほど驚く。
振り向くと、眠たげな表情のカイルが立って二人を見下ろしていた。
「カ、カイルさん? いつの間に……あっ、服」
思わず上から下まで視線を走らせながら、一海は慌てて立ち上がる。
Tシャツにトレーニングウェアの上下、というラフなスタイルではあるが、現場の状況から危惧していたような姿ではないことに一海はホッとする。
「それはこっちの台詞だ。騒がしいと思ったらこんなに散らかしやがって……何をどうするつもりだったんだ? 片付けるのが大変じゃねえかよ。まったく、おちおち仮眠もできねえ」
寝起きで機嫌が悪いのか、いつもよりぞんざいな口調だった。
まるで室内の惨状は自分とは無関係に起きたかのような口振りだが、どうやら脱ぎ捨てた服はカウントに入っていないようだ。
「これはちょっと事情が……え? 仮眠って、ここ以外にも寝る場所が用意してあるんですか?」
「そりゃぁ一度に二名も三名も、そのベッドじゃ寝れまいよ。この事務所はボロだが、広さだけはそれなりにあるからな」
カイルは事務所の反対側の方向を顎で示した。
「あぁ、そう言われれば……そうですよね」
「ねえカイルさん、寧々さんは? 来ていないんですか? スマホだけここにあって……」
弥生が段ボールの隙間を指差しながら口を挟んだ。
カイルはそれを聞いて小さく舌打ちする。
「しょうがねえなぁあいつは……どら、俺が預かっておくよ」
そう言ってダンボールの山を覗き込み、携帯電話をつまみ上げる。
「あ、あと猫が二匹……あれ? さっきまでいたのに、どこ行っちゃったんだろ?」
一海が再度覗き込むと、ダンボールの洞窟の中には布のような物が残っているのみで、へたり込んでいた白い猫の姿が消えていた。
弥生も覗き込み、それから辺りを見回す。
「そういえば黒い子も見当たらない……」
「猫ぉ? はは、この建物もボロいからな。大方どこかの窓か通気口に隙間があったんだろう。一体何匹になるのかは数えたこともないが、しょっちゅう入れ代わり立ち代わり色んな猫が顔を出しているぞ。寧々がどこかに猫通路を作るとか作らないとか言ってた気もするが……さて」
カイルは大きな伸びをひとつすると、脱ぎ捨てられていた服や、床に散らかった書類をがさがさと集め始めた。
弥生も慌てて手伝う。一海だけはまだ諦めきれなくて、猫がいた辺りのがらくたをひっくり返していた。
「あ、少年、その辺は下手にいじると崩れるぞ?」
「えぇ? なんですか? うわっ、わわわわ」
カイルの注意が一歩遅かったのか、一海が慌てて顔を上げた瞬間、前衛芸術的に積み上げられている段ボール箱の角に肩が当たり頭の上から大小いくつもの箱が落ちて来た。
「ちょっと一海くん! 片付ける端から散らかさないでよ!」
弥生が書類の束をテーブルに置きながら咎める。
箱をよけながら一海は抗議した。
「あのなぁ……その前に大丈夫だったか心配しろよ」
「一海くんはちょっとやそっとじゃ死なないと思ってるから大丈夫よ」
弥生の言葉に、珍しくカイルが笑った。
「なんだそれひでえ。カイルさんも笑うなんてひでえ」
一海は口を尖らせた。
* * *
部屋中に散らかっていた書類は間もなく粗方片付いた。
あとは案件ごとに仕分けるからとカイルが言うので、一海たちはダンボール箱を積み直す作業に掛かる。
「ん? これは?」
テーブルの上に置きっぱなしになっていた箱を見つけ、カイルが問う。
「あ、ケーキを買って来たんですけど、寧々さんがいらっしゃらないから……」
弥生は手を止め、思案する。「どうしましょう。冷蔵庫に入れておきますか?」
「そうだな。俺たちだけで食べてしまうという手もあるが……」
カイルはにやりとする。
「しかし寧々が知ったら地団太踏んで怒るに違いないからな。冷蔵庫にしまっておいてくれ。ああそうだ少年。箱も大体片付いたことだし、済まないが買い物を頼まれてくれないか?」
カイルは一海に手招きをすると、メモ用紙を一枚切り取りざざっと走り書きした。
一海が受け取ったメモは、少し右上がりの鋭角的な文字で書かれていた。
消毒液、ガーゼ、絆創膏二種類、湿布、牛乳二パック、砂糖二キロ、猫餌の大袋、コーヒーフィルター……
「これ、ちょっとってレベルじゃ――」
「大丈夫だ。そこのアーケードの二丁目と三丁目で全部揃う。仮眠してから買いに出ようかと思ってたんだが、クライアントから電話が掛かって来る時間を忘れていたのでね。いやうっかりしていたよ」
一海の文句をしれっとかわすカイル。
――どうしてここの人たちはこうも人使いが荒いんだろう……一海はため息をついて、それ以上抗議するのを諦めた。
「わかりました……でもこれ、重さはともかく結構な量が。あのアーケード、自転車走行禁止だし」
それでも未練がましく愚痴ってみる。
「あら、私も一緒に行けばいいじゃない。ついでにお茶屋さんに寄りたいな。お勧めのコーヒー豆と茶葉を買って来ますよ」
助け船のつもりなのだろうが、弥生の提案は一海の思惑とは逆方向だった。
「そうか、それは楽しみだ。じゃあこれで。多分足りると思うんだが」
カイルは机の上に放り出してあった財布から一万円札を二枚抜き取り、一海に渡す。
「コーヒーの代金もそこから出してくれ。なに、事務所の経費になるのだからきみたちが気にすることはない。あ、くれぐれも工場や倉庫街の方には迷い込まないようにな」
「はぁ……じゃあ行って来ます」
成り行き上、出掛けないわけには行かなくなったので、一海は肩を落としたまま弥生と一緒に事務所を後にした。