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Ⅰ-Ⅳ 彼の怒りと彼女の笑い

「ふぅおぉおおおおおおおぅっ?!」



 何が起きたのか気付いた瞬間、一海は情けない叫び声を上げた。


 その声は段々と尻すぼみになり、肺が絞り尽くされると空気が抜け切ったバルーンのようにへたり込んでしまう。




 ――いや違う、違うぞ俺。へたってる場合じゃねえ。すぐにも事の真相を確認したいがいかんせん足が言うことを聞かないまったく聞かない。世に言う反抗期もかくやあらん。しかも目の前が段々暗く……まさにお先真っ暗。誰が上手いこと言えと……あぁぁ、だからそんな場合じゃねえ。



 頭の中では言葉がぐるぐる回るが、腰が抜けて声も出て来ない。



「やっ……はぁはふはぁ……」


 やっちまった! 嘘だろ……夢じゃねえのかよ!


 そう言ったつもりが、口から出て来たのは空気が抜けるついでに音が出ちゃいました程度のかすれ声だった。



 見えない手すりにすがるように震える手を伸ばしても、そこにはただ虚空のみ。仮にギャラリーがいたとしたら、残暑がまだやる気満々な九月の午後に零下で凍える一人芝居という、間抜けな姿を晒していただろう。



「いやっ、とっ……とととととに、とにかく、よ、横峰……どうしっ――」



 積極的に脱線して現実逃避する思考を、無理矢理本線に戻そうとする。


 不幸中の幸いか、構内は大音量のアイドルの新曲と、それに負けない嬌声に溢れている。一海の情けない叫び声を聞きつける者はいなさそうだ。



 しかし声は聞こえずとも、落下する音が聞こえないわけがない。もっとも一海には聞こえなかったが、動転していたせいか自分の声で消されたかのどちらかだろう。



 ――それよりこの状況をどうやって言い逃れ、いや言い訳、いや説明をしたらいいんだ。「ちょっときつく注意したら目の前で飛び降りちゃいました。てへっ」なんて、教師や関係者に「ああそうですか」と納得してもらえるわけがない。そりゃぁ入りたくて入った高校とは言いがたいけど、試験勉強だってしたし、それなりの成績を維持して卒業し、親の期待に応えて大学から就職まで……一応そんなライフプランを立ててたのに、この一瞬で塵と消えた絶対消えた。なんてこった。



 頭の中で一人ボケツッコミを繰り返す間に視界が戻って来た。だが見えるのはがくがく震えている自身の右手と、眩しく輝く青い空にまだやる気を見せている入道雲。



 それから南西角のフェンス――ついさっき、弥生が飛び降りた現場。



 一海は荒い息のまま、茫然とそのフェンスを見つめ続けていた。




「何やってるのよ?」



 ふいに横から声を掛けられ、汗がどっと噴き出した。

 背中から身体(からだ)、腕、頬に掛けてまで、その冷たさに一気に鳥肌が立ち、身震いをする。



 ――見られていた? まさか。誰も屋上(ここ)には来ないはず……いや、でも叫び声を聞いてならあり得る。ヤバい。いや、見られていようがいまいが、なかったことにはできない。もはや万事休す。ここはもう腹をくくるしか……



 一海はガチガチに固まった首をブリキロボットのようにぎこちなく回し、無理矢理振り返った。



「ち、違うんだこれ……ふぁ? ほ、えぇぇっ? よこみねぇっ?」



 倒れ込むように後ずさり、目の前に現れた姿を凝視する。金魚のように口をぱくぱくし、弥生のてっぺんからつま先まで、視線を何往復もさせる。



 髪はツヤのあるストレートで、肩の辺りでさらりと風になびく。何故かいつもより余計に輝いて見えた。少しつり目気味なため普段からクールな表情だが、不審げな表情で見下ろす視線は、やたら鋭く突き刺さる。



 ――なんだよその視線()は? 俺なんか悪いことしたか? いや、俺はやってない。何もしていない。ほんとなんです。無実です。信じてくれよ刑事さん! こいつが勝手に飛び降り……って、あ、そうだ!



 ヤニの染み付いた取調室で白状させられ(落とされ)掛けている気分に陥っていたが、一海はやっと言うべき言葉を思い出す。



「お、お前、さっき飛び降りたん――」

「ひょっとして、まさか本気で腰抜けてるの?」



 同時に弥生も質問をぶつけて来た。

 不審げに寄せた眉とすがめた目つきが、徐々に驚きに見開かれて行く。更に笑いをこらえるひきつりに変わる。



「わっ悪いかよ。あんなことされたら、だ、誰だってこうなるに決まってる! ってか笑うな!」



 一海は顔を赤くしながら、それでも精一杯眉を寄せて怒りの表情を作る。


 体勢が変わっても相変わらずへたり込んだままだったが、今度はしっかり声が出せている。だがどうやら一海本人は気付いていない。



 一方弥生は、笑うなと言われたせいで逆にこらえ切れなくなったらしい。

 ぶふっと吹き出した後、くすくすくはくはと、ちょっと変わった音で笑い続けた。



「す、すまない。笑うつもりは、なかったのだけど。あまりの反応で。ほんとに悪気はないのだけど。というか、あの一角はすぐ下に非常階段の屋根があるから、手すりからでもせいぜい三メートルくらいだよ? 入学当初の構内案内で見ているし知ってるものだと。お前があまりにしつこいのでからかったのは謝るけど。でもそんな本気で驚かれると、こっちが悪いことしたみたいじゃない? あはは、おかしい」



 弥生が本当に悪気がなさそうなので、逆に一海は段々腹が立って来た。


 普段は鉄面皮を絵に描いて人にしたようなやつなので、クラスメイトは多分知らない、当然一海も初めて見る表情だったが、この状況じゃ好意的な感想も持てない。



 むしろ滅多に見せないであろう笑顔そのものに悪意を感じると言っても過言ではない。



「そっそんなの、覚えてたって咄嗟には思い出さないかも知れないじゃないか。俺だって好きでしつこいんじゃない。お前が何度注意しても屋上に勝手に上がるから毎回、生活委員として――」


「あぁもうお前の説教は飽きたよ。しかも車に轢かれたヒキガエルみたいな恰好で、下から目線で叱られても全然迫力ないし。あはは、ヒキガエルだって。お腹痛い。はぁ……」



 まだにやにやしている弥生が言い終わるのと同時に予鈴が響く。



「とりあえずそろそろ教室に戻ろう。ほら、立って」


「わかったよ……あれ?」――おかしい。



 片手をつき体重を掛けて立ち上がろうとするが、脚がしゃきっとしない。

「なんだこれ」


 ぼそりとつぶやいた声に、既に非常口まで到達していた弥生が気付いて戻って来た。



「何やってるの、ほんとに」


 目の前で弥生が仁王立ちしたので、視界にはすらりとした脚線美が映る。しかしこの状況ではラッキーとかではなく、不快とか屈辱とかマイナス方向の感情しか湧かない。



 一海は視線を逸らした。

「ほっとけよ。っつーか先に行けよ」



 ――顔を上げないのは、これ以上無様な姿を笑われたくないからだ。こいつもそれなりにミニスカート仕様だから、うっかり顔を上げたタイミングが悪ければ痴漢扱いされかねない、からではない。断じて違う。



「しょうがない奴だな……ほら」


 しかし弥生はわざわざ一海の視界に入るように回り込み、手を差し出す。

 一海はその意味を理解できず、白くほっそりした指を眺めていた。



 ――手? いや、いやいや、これが野郎ならまだ多少の屈辱を感じつつも掴まる気になるかも知れないが、相手は女子だぞ? 下手したらラブコメよろしく、二人一緒にコケることになるぞ? そうなったら今度こそ本気で我が身の進退が……



「はぁ……ぐだぐだ余計なことを考えている暇があるなら、さっさと手を掴んで。人を起こすのに必要なのは腕力じゃないよ?」


 まるで心を読んでいたかのような言葉に、思わず一海は顔を上げた。

 呆れと多少の苛立ちをにじませた表情の弥生が、お手を催促するように手を動かして急かす。



 手を掴もうと一海が手を伸ばすと「違う」と短く弥生が言う。


 はぁ? じゃあどうすりゃいいんだよ? と一海が声にならないまま顔を上げる。



「私の手首を掴める? お前の握力が復活してるかという意味だけど」

「……手首かよ」



 ――つまり、好きでもない野郎の手を握りたくないってわけな。あーそうだろうともよ。別に期待してたわけじゃねえけど、いちいち傷つくよなぁこういう態度。



 一海はまた声にならない愚痴をため息とともに吐き出して、弥生の手首を掴む。

 ついでに握り潰してやれば、この重ね重ね無礼な扱いに対して多少なりとも意趣返しができるだろう、とばかり、握った手に更に力を込める。


 しかし弥生の白く細い手首に一海の少し骨ばった指が食い込む様子はなく、一海の手はかくかくと細かく震えるだけだった。



「……なんだこれ」

「さっきも言ってたね、それ口癖?」



 一海が茫然としている様子を冷ややかに見降ろしながら弥生は問う。が、返答を求めていたわけじゃないらしい。ふぅ、と小さくため息をつきながら指をするりと動かして、一海の手をあっさりと外した。



「んーしょうがない……本意ではないが、私が立たせてやろうか。その代わり大人しくしといてよ?」



 そう言うと、問い返す間もなく素早く背後に回り、一海の両脇下から自分の腕を指し込んでそのまま前に突き出した。



「え……」



 何をする気だ? と問おうとした時、ぐいんっと後方斜め上に引っ張られる感覚があり、次の瞬間一海の両足は屋上の床を踏みしめていた。


 その刹那、背中に弥生が密着していた気がしたし首筋にふわりと息が掛かったような気もしたが――弥生がまた素早く腕を抜いてしまったために余韻に浸る間もなく、まだよろける両足に慌てて力を込め、バランスを保つ。



 そこへ追い討ちをかけるかのように、弥生が一海の腰の辺りをばんばんとはたく。結局よろけて二、三歩進み、弥生を睨む。



「どう? 腰もしゃんとしたでしょ? さ、急ぐよ」


 弥生は相変わらず悪気のなさそうな、でも愛想もない表情で一海の視線を受け流し、さっさと非常口に向かった。



「ちょ、え、いや確かに立てたけど。歩けるけど。叩かなくなって埃ほろえるだろよ。っつか、さっきのどうやってやったんだ? あれ、えいって持ち上げるやつ」

 追い駆けつつ非常口の施錠もしながら一海は早口で問い掛ける。



「あ、そういや横峰のが小さいじゃんよ? 腕力だってありそうじゃないし、なんであれで立てんの? まさかハンドパワーとかマインドコントロールとかサイコキネ――」


「黙れ。そして急げ。もう本鈴が鳴る」



 弥生は冷たい声で言い放ち、二年生の教室が並ぶ三階まで降りると更に足を速める。



 その言い草はなんだよ、と一海が文句を言う前に本鈴が鳴り、二人は慌てて教室へ駆け込んだ。一海は後ろの扉から。弥生は前側の扉から。


 それっきり弥生はちらとも振り向かず、午後の授業が始まった。


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