Ⅹ-Ⅳ 弥生のトラウマと一海の過去
* * *
高千穂の足音がビルの外に消えてからようやく、一海は肩の力を抜いた。
「――言っちゃ悪いけど、あの人不気味だったわね」
弥生もいつの間にか、一海から手を離していた。しかしその顔はまだ少し青ざめている。
「あぁ、嫌味っぽい感じだったし」
「人のことじろじろ見て、失礼ったらありゃしないわ。思い出しても身震いしそう」
いつものような強気な言葉の端々に、どれだけ心細かったかがにじみ出ているのを一海は感じた。
――あの目、俺でさえ足がすくむ気がしたんだし、女の横峰なら尚更だろうな……俺は盾としては頼りないだろうし。
「なんだろうなぁ。同業者ってか、ライバルとか? まぁ、あまり好かれなさそうなタイプだったな」
なるべく軽口に聞こえるように、一海はそう言うと肩をすくめた。弥生は同意してうなずき、ため息をつく。
「あんなお客さんが来るんじゃ、お留守番も楽じゃないよね。そろそろ帰ろうよ」
弥生は窓の方を見やる。ぽかりとひとつだけ浮かんでいる雲がライラック色に染まっていた。
「あぁ、うん。そうだな。もう暗くなってるし、家の近くまで送るよ」
「え、でも一海くん本当は遠回りじゃない? 悪いよ」
何故か急に焦る弥生を見て、
――今更、変なところで遠慮するやつだなぁ? と一海は思う。
「俺が心配だから、送りたいって言ってんだよ」
「えー、なにそれかっこいい」
一転、弥生は茶化したように笑う。ようやく血色がよくなって来たのか、頬が軽く染まった。
「っせえよ……さっさと行こうぜ」
一海はぶっきらぼうに吐き捨てると二人分の荷物を持ち、鍵を手にした。
その鍵束は、寧々に渡された時より、一層重みを増した気がする。
「灯りは消しておいた方がいいよな」
誰ともなしに言いながらスイッチを操作し、二人はしんとなった探偵事務所を後にした。
* * *
薄暮になるつれ、通りすがる自動車のライトが眩しく感じられる。
BWエージェンシーがある辺りは人影もまばらでうすら寂しい風景だったが、中心街に差し掛かると、街路灯やショーウィンドウの灯りも増え、人通りも多くなって来た。
時折食欲を刺激する匂いが漂う。甘い醤油の香ばしく焦げた匂い。魚が焼ける時の、どこか懐かしい匂い。揚げ物の油の匂い……
二人ともしばらく無言で自転車を走らせていたが、中心にほど近い地域まで来て信号待ちをしている時にようやく、弥生が一海の隣で口を開いた。
「ねえ一海くん」
「うん?」
一海は周囲を気にしているのか、弥生を見ずに返事をした。弥生は首を傾げて一海の横顔に話し掛ける。
「ひょっとして、さっきの高千穂って人がつけて来るかもとか考えてる?」
「う……まぁ、なくはないかな、と」
「そっか……ありがと」
続いてふふ、という軽い笑い声が弥生の口からもれる。信号が青になった。
「いや、やっぱ誘った責任もあるし」
一海は横目で弥生を一瞬だけ見やり、ぽつりと付け足してからペダルを踏む。弥生も自転車を発進させ、歌うように言う。
「こういうのってリア充っぽーい。新鮮だわぁ」
「なんだそれ」
一海が思わず吹き出すと、弥生も声をたてて笑った。
笑い声に驚いたのか、歩道に佇んでいた同世代の男子がすれ違いざまに振り向いている。
駅前に向かって伸びる大通りの交差点の通りには、『くぬぎ通り』と、樹木の名前が冠してあった。しかし『大通り』と呼ぶ者も多い。ここが市内で唯一の三車線道路だからだ。
弥生は何かを思い出したように「あ、そうそう」とうなずいた。
「あのねえ、この大通りの交差点」
「ん?」
一海は漕ぐ足を止め、惰性で進みながら、顔を弥生の方へ少し向けて話をうながした。もたもたしていた歩行者数人が目の端に映る。
――あんな調子じゃ、真ん中の避難帯に取り残されたまま、信号が変わりそうだ。
一海がちらりと思う間に、増水した河の中州に閉じ込められたかのような歩行者の周囲を、ごうごうと車が走り過ぎ行く様子が見えた。
「私ね……ここで車に撥ねられたの。中一の時に」
「え?」
一海は思わずブレーキを握りしめる。キュキュっとブレーキの擦れる音を立てて自転車が止まった。
改めて弥生の顔を見ると、ふざけているようではない。
「撥ねられた?」一海は問う。
「うん、撥ねられた。轢き逃げっていうの? まぁ、一命を取り留めたから今ここにいるわけだけど」
弥生は一海の隣にゆっくりと自転車を止めて笑う。何でもないことを話すように。
「犯人は捕まらないし、結構入院してたし、それ以来うちの両親は過干渉になっちゃって。護身術習わされたり。変な噂が立ったこともあったわ」
「そ……うなんだ」
その噂なら一海も耳にしている。長浜サチ子の歪んだ笑顔を思い出した。
誘拐されたとか、図書館登校とか、ニタニタしながら撒き散らしている、あの不快な笑顔。
弥生と中学で同窓だった男子が「長浜の言ってること、全部嘘っぱちだから」と、世間話のついでに一海たちに教えてくれたので、事故に遭ったということまでは知っていたが――
「だからこの辺通るのは結構久し振り。たまに歩きで来ても、絶対歩道橋通ってるの。でも今日は一海くんと一緒だから意外と平気ね。っていうか、ここを通るたびに撥ねられるわけじゃないのにね……」
――だから以前は違う道を通ったのか。と、一海は合点がいった。
「……別に一海くんのせいで撥ねられたわけじゃないんだから、気にしないでね?」
「いやそれはわかってるよ。何言ってんだよ」
「だって深刻そうな顔してるから。そういう意味で言ったんじゃないの」
そういう意味ってどういう意味なのか一海にはわからないが、弥生は微笑する。
「たまたま今日ここを通って、そういえばそんなこともあったなぁって思い出したのと、誰にでもウィークポイントがあるものよね、ってことを一海くんに言いたくて」
一海は首を傾げる。すると弥生は一瞬視線を落としてから、窺うように一海をみつめる。
「つまりね、私はこことか、ここに似ている交差点が怖いと感じるの……禅さんと会った場所も」
「あぁ、そういうことか」
――誰にでもそういうトラウマはあるものなのかも知れない。
弥生にも一海にも、まだ聞いたことはないが、李湖や寧々にも。一海がそう納得してうなずくと弥生がぽつりと付け足した。
「うん。一海くんが、学校の屋上を怖がってるようにね」
「な……っ?」
瞬間、一海には、目の前の風景ががくんとずれたように見えた。まるで後頭部を殴られたように。
そのまま目眩を起こして自転車ごと倒れなかったのは、奇跡に近いことだった。
「私が通報したの。あの時」
「あの時って……」
一海の声は震えている。
「一海くんがビルの屋上から……飛んだ時。私、高校の下見に来ていて、たまたまあの屋上にいたの」
「なんのこと、だか、わからな……な」
必死で否定したが、誤魔化しきれていないのは一海自身にもわかっていた。
冷や汗がどっと噴き出しているのを感じる。息が荒い。おまけに声は震えている。気を抜くと、目の前が暗くなりそうになり――
弥生は、一海の様子を静かに見ているだけだった。
* * *
どれくらい時間が経っただろう。通行人が何人も、一海たちに不審げな視線を送りながら通り過ぎた。空はすっかり暗くなり、ちかちかとカラフルなネオンサインの灯りが、視界の端で自己主張をしている。
一海の冷や汗が退き、呼吸が落ち着いた頃合いを見計らったように、弥生は大袈裟に肩をすくめて首をぶんぶんと横に振った。
「やだやだ。こんな適当な作り話にいちいち動揺してたんじゃ、私を変態から守るどころの騒ぎじゃないわよね、まったく。頼りにならない彼氏だわぁ」
「悪かったなぁ! って、えぇ? 作り話ってまさか――どこから?」
反射的に言い返してから、一海はまた目眩を起こしそうになる。
弥生はもう一度ため息をつくとハンドルを握った。
「さ、帰ろう。すっかり遅くなっちゃったわ。私の家は、その二つ先の信号を右に曲がったらすぐ、もう少しよ」
言うが早いか、弥生はペダルをぐんと踏み込む。慌てて一海も体勢を立て直した。
「ちょ、なぁ、お前、さっきの話って」
「まぁたお前って言った」
「あ、わりぃ――っていやそうじゃない、そこじゃない。っつーか、誤魔化すなよ」
「ほら、青だよ。早く早く」
「おい、待てってば」
追及をかわしたのか、それともまたからかわれたのか。弥生が自転車のスピードをぐんぐん上げるので、一海は必死に追い駆ける。
普段の一海ならすぐに追い付けそうなスピードなのに、思うように力が入らない。
「ちくしょう、なんだよ。見透かしたようなこと言いやがって……」
漕ぎながら憎々しげにつぶやく一海の耳のすぐそばを、びゅうびゅうと音を立てて風が通り過ぎる。
その風は、時々弥生の笑い声と、ほんのり甘い香りも運んで来た。
「なんなんだよあいつ。いっつもいっつも――何考えてんだかまじわかんねえよ。なんで俺振り回されてんだ……」
一海のつぶやきと同時に、弥生の自転車が角を曲がって消えた。