Ⅹ-Ⅰ カイルの態度と寧々の剣幕
「カイルさん、こんにちは……」
「何度もお邪魔してごめんなさい」
カイルの事務所に来て一海がドアを開けるなり、弥生がにこやかに挨拶した。
カイルは弥生の顔を見て少しだけ目を丸くしたが、続けて一海を一瞥し、すぐまた書類に視線を戻した。
「そうか、お嬢さんも一緒か。ふむ」
一海は内心穏やかではない。
――『何度も』という言葉がこいつの口から出るということは、ひとりでここに来ていることがバレているかも知れないということであり……いやしかし、やましいことはこれっぽっちもないわけで。そもそもやましいと思うような筋合いもないわけで。
と頭の中で言い訳を繰り返していた。
「どうしたの? 一海くん。そんな所で固まっていたらドアが閉められないでしょう? 開けっ放しにしていたら、猫さんが出てっちゃうかも知れないし」
弥生はまるで母親が小さな子どもをたしなめるような口ぶりで、ドアノブを握ったままの一海をうながした。
「あ、うん。お邪魔しますー……」
一海は弥生に続いてぎくしゃくと事務所に足を踏み入れる。
「寧々はもう少しで戻ると思うから、その辺で適当にくつろいでいてくれ。あぁ、確かケーキがあるとか言っていたな……」
しかしそう言った後もカイルは動く気配がない。
というか、実際仕事に集中しているようで、訊き返せない雰囲気だった。
自分たちで用意しろということなのか、寧々が戻るまで待てということなのか。弥生にも一海にも判断できず、おとなしくソファに座って待つことにした。
室内に流れるクラシック音楽を聴きながら三十分経った頃、階段をどかどかと駆け上がる音が聞こえた。続いて勢いよくドアが開けられる。
毎回足音が騒々しいのは、厚底ブーツで駆け上がって来るせいだろう。
「ごめんごめん。ハリマヤがなかなか口を割らなくてさぁ……あいつほんと、頭固いのなー。お、カズミンいらっしゃい。あれ? 弥生ちゃんも来たんだぁ?」
右手に分厚いA四サイズの封筒を持ち、ソファに並んでいる二人に向かって軽く左手を上げる。
「そうかそうか。ひょっとしたら来るかもなーって思ってケーキを多めに買っておいたのは正解……」
そう言いながら、カイルの机の上の書類の上に封筒を放り出し、背負っていたデイパックを床に投げ出す。
それからテーブルの上に視線を走らせ、寧々は口を尖らせた。
「って、なんだよカイルぅ。お茶くらい淹れてくれてもいいんじゃないの?」
「俺は明日までの書類で忙しい。それに、俺はコーヒーしか淹れられない」
不機嫌そうに言い返すカイルは、両手の紙束を振って寧々にアピールする。
寧々は諦めたように肩をすくめた。
だがしかし、電話の件が引っ掛かっている一海には、カイルが弥生を避けたがっているようにしか見えない。
「えー、でもさーコーヒーでもいいじゃんよ。ちなみにカズミンと弥生ちゃんは何飲む?」
そう言いながら、寧々はてきぱきと棚からカップを出して並べているらしい。かちゃかちゃと小気味いい音が聞こえる。
「あたしは今日は紅茶の気分だけどねぇ。ここのオレンジケーキとレディグレイの相性がよくて……」
「あ、俺はコーヒーかな。できればアイスで」
「あの、じゃあ私は紅茶で。でも、その、お構いなく」
「いいんだよぅ、遠慮しないで。ちょっと待っててね」
にこやかに対応する様子もどこかいつもの寧々とは違うように一海は感じたが、そもそも探偵は客商売なのだ。営業モードの寧々はいつもこんな風なのかも知れない。
それよりも弥生の遠慮がちな様子の方が、一海には見慣れないことだった。
* * *
「さてとぉ」
テーブルに三人分のケーキと飲み物、カイルの机にもコーヒーを置いてからようやく、寧々は切り出した。
「――ヘビが出たって?」
一転、その声は低くなる。
まるで、壁の向こうで聞き耳を立てている誰かに聞かれまいとしているようだった。一海もつられて低い声で問い返す。
「心当たり、ありますか?」
「ある……」
そう言いながら、寧々は何か考え込む風だった。一海と弥生が息を飲んで次の言葉を待っていると、寧々は急に顔を上げた。
「ってゆーかさぁ」
びしっという擬音が付きそうな勢いで一海を指差す。
「何でメールすぐ返信して来ないのよっ」
「あ、それは――」
一海が口を開き掛けるが、寧々の言葉は止まらない。
「なかなか返って来ないから心配になってコールしたらさぁ、『現在電源が入っておりません』とか言われるしさぁ。もうどういうこと? メールしたら返信が来るって大前提だよね? 携帯電話の『携帯』ってどういう意味か――」
「あの、ごめんなさいっ」
とんでもない勢いでまくしたて続ける寧々の言葉を、一海は無理矢理遮って謝った。
「授業中にメールが来てもすぐ読めないし、来なかったら来ないで気になるのが嫌だから電源切っていましたっ」
一気に言い切った一海を寧々は睨む。
その表情は怒っているというよりは、拗ねているように見えた。
「ほんっとごめんなさい。俺、とにかく寧々さんに教えなきゃと思って、勢いだけでメールしちゃって……」
一海が駄目押しで付け加えると、寧々は肩をすくめて天井を仰いだ。
「まぁ、過ぎたことをぐだぐだ言っても始まらないか……でも昼休みになったらすぐ確認できるよね?」
「そうだけど……」
どう説明しようかと迷っていると、弥生が横から口を出した。
「私が図書館に誘ってたんです。私のせいです」
「え、横峰」
「図書館?」
寧々は弥生を不思議そうに見て、一海に視線を移す。
「どういうことさ、カズミン」
「あの、寧々さん、さっきからカズミンって」
「一海くんじゃ長いでしょ。だからカズミン」
「長いっていっても、たった一文字――」
「いいから、説明して」
寧々は一海の突っ込みを素っ気なく受け流して、弥生に向き直る。
弥生は緊張した面持ちでうなずき、話し始めた。
「一海くんからヘビの話を聞いて、私が昔見たことあるヘビと一緒なのかと思ったんです。だから似たような写真を探したくて、一海くんを図書館に連れて行ったんです」
「――そうなの?」寧々は試すような視線で一海を見る。
「えっと、あの」――連れて行かれたというかなんというか。
「黒ヘビで、目が大きくて赤い。そうだよね、一海くん」
「う、うん」――あ……そっちの話か。
「――カイル」
寧々は少し背を伸ばし、書類の向こうに隠れているカイルを見やる。低いうなり声の後咳払いをひとつしてカイルが答えた。
「ん……どうしたものかね」
やはり何か寧々たちにも関係あることだったのだろう。と思いながら一海は問う。
「一体何なんです? あのヘビ。俺、初めて見る種類だったんですけど」
しかし何故寧々たちの前ではなく一海の家にヘビが来たのか。一海はそれを知りたかった。
「まぁ、種類は関係ないってゆーか、多分アレは図鑑には載ってないってゆーか、それよりも問題はそいつの行動かなぁ?」
「行動って? そのヘビ、今朝、俺が自転車出そうとしたら、カゴに入ってたんですよ――」一海は覚えている限り、詳細に説明した。
「――で、猫パンチで逃げちゃって、その猫たちが追っ掛けてったっていう。寧々さんたち、このヘビのこと何か知ってるんですか?」
しかし畳み掛ける一海に対して、寧々はどうも歯切れが悪かった。
「ん~……知っているというか知らないというか……カズミン、ヤバいのに目ぇつけられちゃったかもねぇ」
「それって、どういう――」
一海が更に問い掛けた時に、寧々の携帯電話が鳴った。発信元を確認すると、寧々は一海と弥生を見ながら素早く人差し指を口に当てる。
「もしもし、西川……あぁ何だ、ニコちゃん。電話珍しい……えっ?」
一瞬明るくなった寧々の声だったが、次の瞬間には驚愕に変わった。