Ⅷ-Ⅰ 珍しい諍いと小さな変化
翌月曜日。
昨日のトラブルなどなかったかのように、昼休みの弥生は普段通りの弥生だった。
また改めて喫茶店のお礼は言われたが、「次はどこへ行こうねぇ?」と、普通のデートだったかのような言い方をした。一海もわざわざ蒸し返すようなことはしたくない。
だが、弥生は予鈴が鳴る前に屋上を後にした。それは一海の記憶が正しければ、初めてのことだ。
一海が教室に戻ると、いつもとは違う不穏な空気が教室内に流れていた。普段はかしましい荒井たちのグループまでが、何故か声を潜めている。
何があったのかと鳶田たちに訊こうかと思ったその矢先、険悪な声が聞こえた。
「だから俺は知らねえって言ってんだろ? 因縁つけてんじゃねえよ!」
見ると、上条が女子に食って掛かっている。割と普段から見慣れている光景だが、その相手は上条が密かに恋焦がれているという噂の鷹野だった。他の女子生徒には因縁つけたりからかったりする上条だったが、鷹野には今まで一切そういうことをしなかったので、一海は首を傾げた。
「なに、上条、うっかりセクハラでもした?」
本人に聞こえないように鳶田に話し掛けると、鳶田は苦笑しながら一海に耳打ちした。
「何かさ、鷹野のスマホが落ちてたとか言って、上条が拾って渡したんだよ。そん時は『あら、ありがとう上条くん』なんて鷹野も普通だったんだけどさ、その後で、メールだか写真だかが消えてるって騒ぎ出してさ……」
鳶田は騒ぎの中心に向かって顎をしゃくる。一海はうなずきながら小声で鳶田の言葉を引き継いだ。
「で、今に至る、ってことね。理解した。っつーか、上条、何でメール消したんだろうな?」
「彼氏といちゃいちゃしてるメールでも見ちゃったんじゃねえの?」
坂上がにやにやしながら話に割り込んで来た。他人事のように言っているが、鷹野の彼氏は坂上だということを、一海も鳶田も知っている。
坂上自身も、長身な鷹野と低身長でへちゃむくれな自分を比較して自虐してみたり、『美女と饅頭』などと言って、身内では自分たちのことをネタにするような性格だった。
美人なうえに帰国子女である鷹野を特別扱いしなかったから、とかいう理由で告白されたという、わかるようなわからないような馴れ初めエピソードが彼らにはあった。
「鳶田ならわかるけど、鷹野さんのデレてるメールとか想像できねえけどなぁ」
一海が坂上の方を向いて肩をすくめて見せると、鳶田は細い目を更に細めて眉間を寄せた。
「なんだよ木ノ下。それ、それ差別じゃね?」
「むしろ俺、鳶田のデレてないメールの方が貴重かも知れないって思うわ」
坂上が乗っかる。
「それな。この世の終りまでデレてそうだよなー」
一海たちの軽口に対して口を尖らせる鳶田を軽くあしらいながら、一海は教室内を見渡した。
息が詰まるような空気は徐々に消えていたが、逆にざわついて来ている。他の生徒も一海たちのように、口々に好き勝手な見解を話し合っているからだろう。
一海が騒ぎの中心に視線を戻した直後、上条が力いっぱい机に平手を叩き付けた。大きな音で、数人の女子が短い悲鳴を上げる。その瞬間を見ていた一海でさえ、びくりと身体が反応した。
「とにかく! 俺はいじってねえって! スマホが落ちてたから拾っただけだっつの!」
しかし鷹野はその音にも上条の剣幕にも怯まなかった。
「もういいからほんとのこと言ってよ! そうやって言い訳する人って大っ嫌い!」
普段の鷹野からは想像できない剣幕で怒鳴り、周囲が一瞬静まり返る。さすがにこれは効いたらしく上条が固まった。
鳶田がため息をついた。
「おいおい、何か上条がかわいそうになって来たよ……好きな人から言われて一番キツい台詞だぜ」
ぼそりとつぶやいただけだったが、静まり返った教室内には意外なほど通った。
それがきっかけになったのか、ため息やざわめきがそこかしこから聞こえ出す。普段上条を快く思っていない者は、ことの成り行きを見物しながらも無遠慮にニヤついていた。
しかし鷹野と上条は、まるで自分たち以外の声も姿も認識していないかのように固まって対峙したままでいる。
上条はクラスの和を乱すタイプの生徒だが、悪ぶりたいだけで、根は決して悪い奴じゃない。なので一海も多少同情していた。
と、そこへ場違いなのんびりした声が割って入った。
「どうしたの? 鷹野さんが大声張り上げるなんて珍しいわね。階段の所まで聞こえて来たんだけど?」
どこで寄り道してたのか、かなり時間差で教室に戻って来た弥生だった。
普段は他人のことなんてどうでもいいように振舞っているのに、今回は物珍しそうに周囲を見回した。
「横峰さん。あのねぇ、上条くんが――」
口ごもる鷹野の代わりに、お喋りな荒井が早速説明を始めようとする。しかし弥生は、荒井の横槍などまるで聞こえてない風で、鷹野の携帯電話にそっと触れた。
「あ、これ先月出た最新のスマホでしょ? かわいいよねぇ」
一海は思わず弥生を止めようとしたが、ここは屋上ではなく教室内だ。鷹野と上条が集めきっていた視線をそのまま移動させ、今や一身に注目を集めた弥生にこのタイミングで話し掛けたら、悪友たちに、いや他の生徒たちにも何を言われるかわからない。
「私もそろそろ携帯とかスマホとか持ってみたいなぁって思って、この間ショップに行ったんだけどね、これって――」
そう言って、弥生の空気読めなさ具合に茫然としている鷹野の手から、するりと抜き取った。
「こう、点けるとセキュリティが掛かってて、いちいち解除しなきゃいけないじゃない? これがちょっと面倒だからどうしようかなぁ、って」
弥生の言葉を聞いて、鷹野を始めとする何人かがはっと息を飲んだ。
「そ、そうだった……これ、セキュリティが」
今までの剣幕はどこへ消えたのか、鷹野は風船の空気が抜けたようにしぼんだ表情になってしまう。
「あの! ごめんなさい上条くん、あたし……」
しかし上条は、急に鷹野の態度が変わった理由を理解できなかったのか、きょとんとしたままだ。
「ねえ鷹野さん。これって、セキュリティ解除したままにできないの?」
弥生はキラキラと乱反射するデコレーションの携帯電話をためつすがめつ、のんびりと鷹野に話し掛けている。鷹野がおどおどと謝り始めたのもまるで気にしていないらしい。
「え? で、できると思うけど、あたしは最初にパス設定したっきりで、パス入れるのに慣れちゃってて、あのごめん、今はちょっと……」
「解除……って、パスって。それじゃ俺、最初から見らんねえこと前提じゃん?」
上条も、ようやく理解したようだ。
みるみるうちに目と口が丸くなって行ったが、必死に謝り続ける鷹野の様子に怒ることもできず「いや、俺もあれだし、まぁ、あれだ、誤解が解けたんならそれでいいからよ」などとしどろもどろに答えている。
弥生は微笑して「じゃあまた後でね」と言い、あっさりとその場を離れた。野次馬になっていた生徒たちも一件落着したので興味を失ったのか、三々五々自分たちの話題や授業の準備に戻り始める。
一海も、他人事ながらようやくほっとする。
――でもあいつ、扱い方も知らなかったはずだ。インターネットができるのはすごい、なんて驚いてたのが先週の話だったのに。使うことがないからいらない、って言ってたはずなのに、いつの間にショップに行ったんだろう。そんなこと、一言も聞いてない。しかもいつの間に扱い方を覚えたんだろう?
一海はそう考えて少しむっとしたが、はたと我に返る。
――いや、あいつがいつショップに行ったのかとか、別に俺が知ってなきゃいけないわけじゃないんだけど。うん。
「そういや、レイのスマホもパス解除しなきゃいけないタイプだよなぁ。まぁ、俺の誕生日なんだけど」
いつの間に座ったのか、隣の席で鳶田がぼそりとつぶやく。
「お前それ、パスが変わった時は終わる時ってことだな」
一海がにやりとしながらからかうと、意外にも鳶田は少し慌てた様子だった。